アスペルガーの館の掲示板

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[#2055] [投稿者削除] [未読]

[#2901] こだわり続ける penpen 05/1/14(金) 9:19 [未読]
[#2997] Re:こだわり続ける私は何者? 世捨人 05/1/19(水) 13:37 [未読]

[#2901] こだわり続ける
 penpen  - 05/1/14(金) 9:19 -

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   ▼世捨人さん:

そうですねえ。
世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
X氏は指導教授の後任として教師の職を得ているにもかかわらず
そのような無知な人間と付き合うことができなかった世捨人さんは
度重なる解雇という目にあっている。
そしてその人事の不正を周囲に教えてもなかなか受け入れられず、
まして学会の在り方への疑念になるには遠い。
確かに歯がゆく理不尽です。

それどころか世捨人さんはあらぬ疑念をかけられて不快な思いをするかもしれない。
Xをうらやんで足を引っ張ろうとしている。
あらぬことをいいふらしているなど……。
世捨て人さんは最終的に学会の在り方にまで問題を突き詰めたのに
全く違う反応と評価になるかもしれないです。

世捨人さんは人と違う精神構造と価値観を持っていますが
それは非常に周囲からは理解しがたく、
俗世間的な考え方をしない人と付き合えば
耐え難いまでに俗な誤解を受けるかもしれません。

大変悲しいことですが、崇高な思想は理解されないものです。
むしろ逆に非常に下劣な誤解を受けます。
しかし、そのような世間の考え方を理解し受け入れ対応しないと
救いがたい奴とつまはじきになります。

耐え難い俗を理解するという道を取らない限り、
わたしたちが世の中に関わることはできないと思います。

[#2997] Re:こだわり続ける私は何者?
 世捨人 メール  - 05/1/19(水) 13:37 -

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   ▼penpen様:
何時もながらの御返事、大変感謝しております。
>
>そうですねえ。
>世捨人さんが最後にXさんと会ったのが6年前。
>それからずーっとXさんに象徴される無知と無思慮な人間、
>またそのような人物を厚遇する人々への疑問を持ち続けているのですね。
>確かに歯がゆく理不尽です。
>
 しかし、もっと不可解なのは、Xと幾年にも亘って常時接していながら、長いことその人物について洞察を怠っていた私の先輩諸氏の態度ではないかと、思うこともあるのです。私の方では、当初からXについて、その精神的な受動性、端的には感受性の粗さと想像力の欠如、殊に批判的姿勢の完全な欠如(別称「素直さ」又は「嫌味のなさ」)に気づかずにいられなかったので、要するに「相手に出来ず」という直感をどうしても抑えることが出来ず、実際のところ挨拶以外の言葉を交わすことも稀にしかありませんでした。さらに、別の研究課題の発見の故に大学院を修士課程までしか通わず、その後は資金稼ぎの為の会社勤めや、別の土地への移住などの事情が重なって、それ以降Xの性格などは殆ど忘れかけていました。
 
 ところが今から六年前、Xが私の住む土地に短期間滞在すると連絡してきたので、幾分面倒とは思いましたが、少し気を変えてみるつもりもあったのて(今迄私は付合い不精の故に両親や友人知人からも咎められ通しでした)、Xと幾度か会ってみることにしました。その結果はというと、半時間も経たないうちに、それまでの怪訝の念から、まさに仰天に次ぐ仰天となりました。念には念を入れてXの人物を観察すべく、幾度か図書館や古書店に同行したり、差し向いで雑談その他を試みてみたのですが、Xについての否定的な印象は募るばかりでした。
 
 これほどの驚愕をもはや自分としては我慢出来なかったので、かつての知人達へ問い始めたのですが、彼等はなかなか事情を説明しようとはしませんでした。漸く幾月か経ってから、彼等は私に対して答え始めたのですが、Xについての私の観察は全て首肯されたのです。Xを優遇する指導教授とその副官の動機に関して、つまりXの素質と能力を認識の有無という点については、意見が一致するまでには至りませんでしが、そのとき真剣な意見交換が行われたという記憶が残りました。ところが幾度か議論を繰り返しても、指導教授とその一味に対して、私の知人達は私程には怒っていないのではないのかという印象を受けたのです。Xの様な(例えば文献収集の基本すらも弁えない)人物を教壇に据えるとは何事か、奴等は他の弟子共や学生に対して、思考力と感受性のXの水準並への切り詰めと切り下げを望んでいるのではないのか、その様なことをする者はもはや師としても研究者としても認めぬなどと怒鳴るのは専ら私の方でした。ところが中堅研究者と自負する(そして以前私を馬鹿にしていたと見受けられる)私の先輩諸氏は何かと口籠り、指導教授にはそれなりの事情があったのだ、今の組織においては何とも如何とし難いのだ、近頃の日本の精神風土の帰結だ、今の奴等は皆馬鹿だ、というような意見しか述べようとしなかったのです。後で私がそのときの談話を思い返すならば、この先輩諸氏は、Xが文献収集の基本すらも知らないのは、かつて自ら研究課題を設定したことがなく、常に権威者の言いなりになる、そしてそれは元来精神的に極めて受動的な素質(つまり感受性及想像力)の故であり、従ってXは凡そ研究教育活動に適していないのであり、それを十分に認識しない者は、教育者として無能であるか知的にも不誠実なのではないのかと首尾一貫して問い続けるには至っていないか、あるいは、その様な問いを自ら抑圧してきたのではという疑念が湧くのです。
 
 以上のように、私はXに接した僅かの機会で以って、極めて短い時間の内に、Xについて怪訝の念から不快感を経て度外れの驚愕を経験し、更に指導教授達に対しては、多少の不可解さから不信感をあっという間に通り抜けて憤怒を抱くようになりました。ところが大学院に残った知人達は、実際のところその過程に十年余を要したように見受けられるのです。彼等は、研究者仲間とその組織への順応の為に、Xその他の言動を見て見ぬ振りをし続けていたのか、又は個人の言動など研究に無関係と見做してXの人物について真剣に考え込むことを意図的に怠っていたのでしょうか。彼等が長い間Xと指導教授の正体を見損なっていたのは、「社会的適応」とも称される二枚舌の能力の故であり、一方初めからその種の能力を欠いていた私は、結果的には、まさに狂人的に鋭敏かつ鮮烈な感受性の持主であったということになるのでしょうか。あるいは何かの童話で「王様は裸だ」と叫んだ子供の如く、自らを社会的危険の認知能力すら欠いた単純な者と見做すべきなのでしょうか。

 今度もまたもや文章が相当の長さになってしまいました。この問題について書き始めると、本当に時間を忘れてしまいそうになります。やはり現在の私は相当興奮しているようです。

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