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▼kokaさん:
はじめまして、Lao Tzuといいます。
>私が不思議に思っていることなんですが、どうして、発達障害・・・特にアスペルガーという診断名を貰う必要性があるのでしょうか?
>病院という場所は困った人が行くべきところであり、普段の生活に困っていなければその診断名は必要としないのではないでしょうか?
発達障害の診断を受ける人は皆何かしらの困難を抱えていたから医療機関に係ることになったのではないでしょうか。特に成人してから自分で医療機関に足を運んで診断を受けたような人は、そうだと思います。
僕も、鬱の回復のために6年間係っていた医者から、最後の最後にアスペルガーと診断されました。主治医からその言葉を聞くまでは、世間で僕みたいな人間がアスペルガーと言われてこんなに騒がれていることなど全く知らなかったので、びっくりしました。
まあでも僕の場合は、今まで周囲から「人は皆同じ」だと言われてきて、同じことを同じようにやって同じにできない自分が悪いと思い込んでいたことが鬱の原因だったので、「他人と違うやり方でもいいんだ」と思えたら鬱は治ってしまいました。
>「できない」といってしまえば「できない」のです
>でも方法を考えれば、できるようになることが沢山あります
>どうしても困難であるというべき所は人それぞれですが・・・
そうですね、普通の人と同じことを同じやり方でやろうとするからできないだけで、自分の特性を掴んで自分なりのやり方を見つけられれば、沢山のことができるようになります。
学校では読み書きが苦手だったので、自分は文章を書くことなど向いていないと思って諦めていましたが、最近ディスレクシアと診断されて普通の人との違いが分かり、パソコンを使って文章を書くようになったのです。そうしたら、どんどん文章を使って自分を表現できるようになってきました。
作家のアガサ・クリスティもディスレクシアで、パソコン無かった時代だから誰かに書き取ってもらって数々の作品を残せたそうです。
kokaさんは有名人の名前を挙げて比較されるのがお嫌いかもしれませんが、僕はこのことを知って、学校で作文ができなかったからといって自分に才能がないと思い込み、諦めてしまう必要はないんだと思えました。
>簡単に診断名を貰えることで「私は無理なんだ」といってしまっていいものでしょうか?
「無理なんだ=できない」ではなくて、「みんなと同じ普通のやり方では無理(困難)⇒だから違うやり方を試してみる」と発想の転換が出来ればものすごく生きやすくなるし、そのことから社会に貢献できる可能性も開けてくると思うのですけどね。
>障害があっても私の場合、過敏な部分はどうしても避けることができません
>でも、対人関係は今までの経験と体験で上手く行っています
>人から嫌われるというより、むしろ「面白い人」と捕らえられています
僕も昔から周囲には「感受性が強くて面白い人」と思われることが多かったですよ。
>得意な部分と不得意な部分
>それぞれ、お互い異なるだけでしないのでしょうか?
>定型の人でも不得意な部分はあります
>それは定型さん、発達さん関係ないのではないのでしょうか?
そうですね。人間誰でも得意なことと不得意なことがある。だから自分の得意なことを持ち寄って、お互いに苦手なことを補い合うために社会があるのだと思います。そうでなければ何のためにみんなで集まって社会を形成するのか分かりませんし、社会の存在自体が意味の無い物になってしまいます。
>人間という生き物はスペクトラム上のどこかに必ず点在しています
>だから、私は定型さん、発達さんと分けることはできないと思うのです
>それに、個性だと主張するわりにはアスペルガーだとカテゴライズされることで個性ではなくなっているのでは?と感じます
>個性というものは、人間それぞれに元々備わっているものであり、発達さんだからといって特別に個性があるとは思わないんです
そう、僕も主治医から自分がアスペルガーだと言われるまで、人間にそんな区分があるなんて思いもよらなかったのです。ずっと自分は普通だと思って生きてきましたから。
それなのに、最近は僕みたいな特性を障害として区別して扱っているということを知って、なんで世の中の人はそんな区別をしなければならないのか不思議に思いました。
別に、無口だろうが頑固だろうが敏感だろうが、それも一人一人違った個性なのだからそのまま受け入れればいいのに、と思います。
思うに、人間が何かを分類したり区別する行為と言うのは、世の中にある自分の気に入らないものを問題として局在化し、対象を変化させようとする為の手段の第一歩なのでしょうね。問題も問題と思わなければ、区別する必要さえないのですから。
>これらは端折ってblogで書いていることです
>障害だからということを理由にし甘えたくはないのです
>やり方はみんなそれぞれだと思っています
>そのやり方を見つければ世の中では上手くやって行けるようになると思うんです
blogは拝見していませんが、人それぞれ違うやり方を見つけて、違う関わり方で社会と接していくという意見には賛成です。
逆に、学校などでみんな一律に同じことを同じように教えて、みんな同じことしかできないようになってしまったら、果たして社会なんて成り立つのだろうか?と疑問に思ってしまいます。
ロボットみたいにみんな同じことしかしないのだったら、工場の生産ラインみたいな環境じゃないと生きれないですよね。所詮ロボットは、電源や冷却水などが完備されている環境でないと働けないのです。
でも、じゃあ誰がその工場を建てるのか?
全ての人間が同じように働ける工場みたいな環境なんて、神じゃないと創れないですよね。(僕は特定の宗教を信仰しているわけではありませんので、一般的な創造主という意味の神です。)
仰るように全ての人間は同じスペクトラム上に点在し、それぞれ皆違った役割を持って違うやり方で社会と関わるからこそ、社会が成り立つのです。
その中で自分と違う関わり方の人を見たら一見役に立っていないように見える人もいるかもしれないですが、それは見ている人に主観的に分からないだけであって、客観的視点に立てばお互いが反対の動きをしているから吊り合って均衡が取れると言う場合もあると思います。
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