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「新世界」―NEW COSMOS―(’98)
この絵を「新世界」と観るか、「次元の湧出」と感ずるかは、それぞれの知の視界が決めることであって、さほど大きな問題とはならない。
画家、塙珠世の描く「新世界」(第83回二科展出品)は、塙の心象が明日への美を提示した逆説であり、塙は逆説を投げかけることにより、“聖なる美”の創世を絶叫する、むしろここにこそ塙の「新世界」が問題となるのである。
神霊の象徴である龍と女神、そして無限の世界、これらを融合させた塙の絵画空間は赤と黒との基調色に次元を駆使して錯綜させ、観る者を深みの奥に誘い込んでゆく、かくして「新世界」は塙珠世という作家の理想の極限美が描出されたものとなっている。
しかし塙は多様深慮の作家である、かかる評論が塙の意図する心象であるか否かの判断が重要となってくる。結果として、塙は単純にして無限の極限美を「新世界」のなかに描出していない、と判断する方が妥当であると考えざるを得ない。
「新世界」に対峙する世界は暗黒の世界である。塙の心象は、現実に潜む暗黒の世界を「新世界」を通して逆説的に問いつめている、のだと理解すべきではなかろうか。
暗黒の世界は毒蛇であり、情炎であって、現実は冷淡狡知の徘徊する蛇であり、情欲は狡知の蛇に戯れて狂乱する暗黒である。むしろ塙は極限の美が「新世界」のはるか彼方の存在であることを提示し、この「新世界」がさらなる世界に飛躍できた時、はじめて眞実の世界が本当に無限の彼方に見えてくる、と叫んでいるのではなかろうか。
夢幻の世界は、昇華できずに変容していく毒蛇であり、性が問われる情欲の世界である。
かくして夢幻の世界は暗黒の現実と共に壊頽されなければならない。
壊頽された世界が現実に回帰可能ならば、現実から無限へのさらなる道程は絶対美の「新世界」となりうる、こんな逆説を塙は「新世界」のうちに提示することにより、一見統一化されたようでしかし、精神をなおざりにした二十世紀の浅薄な文化教養主義を批判、悲嘆もする。この絵はまさに二十世紀の、いや次の世紀に対する塙の警鐘でもある。
「新世界」が鑑賞者をして、暗黒の闇に蠢く毒蛇と情炎に壊頽され、それが再構築される予感の時こそが、眞の「新世界」として美の極致になり得ること、塙は淑やかに装いながらも毅然としてこれを語るのである。こうした塙の絵画空間は幾多の問いを孕んで難解である、そこに塙固有の美学がある。
「新世界」は難解な故に多様の解を提供する、それは饒舌のようであるが、実は寡黙に美の再認識を静かに、しかし力強く語りかけてくるのある。だから塙の逆回帰させてくる無限の世界は、一方での「眞の世界」であり、
この「眞世界」は現実を超越した絶対の美の世界でなければならない、と塙は定義す
る。 かかる定義をもとに、自ら描いた「新世界」が、塙という作家を夢幻から遠ざけるような逆説の「眞世界」となってくれてこそ、世俗的な批評や鑑賞から、そして価値観から隔絶することのできる“聖なる美”となってくると塙は確信しているにちがいない。 |