私が絵の道を歩む事になった運命の転機

 
「塙 珠世展」画集より  
1995年3月20日文藝春秋画廊
 
 日本の終戦から50年、半世紀を迎える今年は、私にとりましても二科展初入選から10年を迎える年です。この一つの大きな節目の年に、初めての個展を開かせて頂くことになりました。今までゆっくりと後ろを振り返って思いにふける事もなく、唯ひたすらに、前だけを見つめて走り続けて来たと言う感じがピッタリの私ですが、個展を開くと言う機会を頂いて、落ち着いて回想して見る良い時間を与えて頂きました。
 昭和34年8月13日、日本の高度成長の時代に生れました私は、小学校から高等学校までは、私立の川村学園で学び、大学は女子栄養大学で実践栄養学を専攻いたしました。卒業後は、管理栄養士の資格を生かして「何か人の役に立つ事がしたい」との想いで採用枠数名と言う地方公務員試験を受け、合格、そして練馬区の0歳児のいる保育園に管理栄養士として就職いたしました。公務員ですから、女性にとって結婚してからも働きやすい職場ですし、仕事も可愛い乳幼児の成長を毎日実感しながらの、変化に富んだ楽しいやり甲斐のあるものでした。
 このように余り苦労と言うものも知らず、一見これ以上何を望むものがあるのだろうかと思うぐらい平穏で充実した毎日でした。それが全く畑違いの、まさか画家になる道を歩むことになるとは、私自身想像もつかなかった事であり、昔からの私を良く知っている人は、知っている分だけ驚き、耳を疑う事になりました。
 私は幼い頃よく「人間って何の為に生まれて来たのだろう。私はお母さんのお腹から生れて来たし、お母さんはおばぁちゃん
から生れたというのは分かるけれど、おばぁちゃんのおばぁちゃんの、そのずっーと先の一番最初はどうなっているのかなぁー」などと人間の不思議さを考える事がありました。又、大人の人から、「大きくなったら何になりたい?」などと聞かれると、「人の役に立つ何かはしたい」とは思っても、具体的にこれだと言うものが浮かばず、即答が何時も出来ないのが常でした。「BESTを尽くす」「可能性は無限」と言う言葉が大好きな私は、年始の抱負はいつもこの言葉から始まり、「自分にしか出来ない生き方がきっとある、それも平凡ではない何かが私にはあるのではないか」と、勉強にも、スポーツにも、何においてもチャレンジ精神は旺盛でした。ですから昨年、アフリカ・ルワンダ難民の救援に大学生たちが現地入りする、とのニュースを耳にした時、昔の学生時代の私でしたらきっと彼等のように、自分ににも何か出来る事があるのではないか、親を虐殺されて、恐怖におびえている子供達の為に、現地に飛んで行って何かをしてあげたい、と、これから成田を出発しようとしている彼等と自分との姿をダブらせながら、大学生たちの姿を見送りました。
 どちらかと言えば、外で飛び回っているのが性にあっている私でしたから、家の中で一日中絵の制作をしている現在の姿は夢にも思わない事でした。
 その夢にも思わなかった転機が昭和57年7月7日に訪れたのです。その日は私の人生にとって、まさに自分が新しく生れ変わったとも言える記念すべき大切な一日となりました。
 この日は、私の名付け親でもある尊敬するお方にお目にかかったのでした。自分の想像を遥かに遥かに越えた、そのおやさしいお方の真理のお話を伺っている内に、私は長〜いこと自分自身でもよく分からない求めにも似た謎が見る見る内に解けて行くのを感じ、「そうだ、これだ!私が求めてていたのはこれだったのだ!!」と大きく胸を打つ感動を覚えました。そして自分の小さな器が、精神的に喜びで溢れてこぼれ、自分がまるで溶けてしまいそうな心地になっているのを感じました。そのお方から流れる一言、一言、が私の心の隅々まで浸透し、まるで自分の魂が満たされていくような心境でおりました時、私に一言、こう仰られたのでした。「君のインスピレーションを絵で表現できると素晴らしい」と。
 皆様は、御自分の耳をお疑いになるかと思いますが、私はこの一言によって、今までの22年間を白紙にして全く異なる未知の世界に入ったのです。いかに人間は精神的に豊かである事が素晴らしいかを全身で実感いたしました私は、この感動を何とか絵に表現し、自分にしか出来ない作品を描きたい、たった一枚でもいいから人の魂に訴えられる作品を・・・・・・と言う思いに至りました。しかし、絵の事は何にも分からない私でしたから、先ず近くの本屋さんに行き、何を揃えたら絵が描けるのか、というところから始まりました。そして描くのに手頃の大きさだった10号キャンバスに、朝、晩を問わず時間の許す限り絵筆を握り、出来上がりました作品を公募展に出品してみました。丁度二科展の出品規定が10号以上、とありましたので、何も知らない私はガラスの額縁に入れた10号の作品を一点、搬入口に持参しました。その時受付にいらしたニ科の先生に「こんな小品では審査外だから出品料がもったいないよ、もって帰りなさい。そして来年は40号ぐらいの大きさで描いていらっしゃい。」と言われ、会場にいらした原先生を紹介して下さったのでした。これが私と原先生の出会いでした。それから原先生には大変お世話を頂く事となったのです。
 二科展70周年の1985年「ブドウ畑のある風景」で初入選以来、1988年に「夢のパラダイス」で上野の森美術鑑賞、1990年「深海」で会友推挙を頂くなど、二科展を中心に作品を発表する場を頂きました。今年は二科展80周年を迎えます。その80年と言う長い歴史の後半の僅かな時間を二科会と共に過ごさせて頂き、その流れの中で幸せな事にも吉井先生や鶴岡先生、並びに多くの諸先生にご指導を賜りながら今日に至りました。
 戦後50年の今年、この年の3月20日から初めての個展を文藝春秋画廊で開く事に決まった時、私はとても偶然とは言い切れないものを感じました。それは私の永遠のテーマである「人間の真の幸せ」についてを、世界中の人々が戦争と言うものを通して考えを深くするその年と重なったからです。終戦から50年もの間には、ドン底からの目覚しい発展、更に高度な技術開発など目を見張るものが多くあり、また世界の国々が益々身近に感じられる時代となりました。しかし、その一方では戦争がもたらした悲惨さ、罪の大きさを鮮明な映像で見聞きしながらも、争うと言う事を止められないでいる今の現実は何とも言えない悲しい事実です。昨年の二科展の作品「知性は振り子」は人間の知性とは、まるで振り子のように人の幸せの為に振り子が働くと、宇宙にも飛び立つくらいの物凄い燃料にもなるのに、逆に自分の欲や利益の為だけに振り子が働くと、人を不幸に陥れるような災いを生む結果になってしまう、知性は人間の十字架なのだと言う気持ちを表現したものです。表紙絵の「夢のパラダイス」は、誰でも憧れるパラダイスについて、広大無辺の宇宙を自由自在に羽ばたける天馬の目を通して自分の思いを描きました。そして、この個展のために描きました大作「愛の手」は、先の大戦で、日本に原爆が投下され終戦を迎えたというその戦争の代価は、多くの戦没者と、目を覆いたくなるような数々の悲惨な事実、そして、一生背負っていかなければならない心の傷跡です。
 一体、誰に、何の権利があって300万人もの尊い命を奪う事が許されるのか!我々が過酷な惨状の歴史の中から本当に学び教訓としなければならないのは、「人が争い憎しみ合う心ではなく、人を愛するやさしい心、弱い立場の人の事を考え、助けあっていく心なのではないか。地球全体が救われる道は、そういう愛で満ち溢れていることなのだ!」という熱い想いで、初めて描く200号キャンバスに取り組みました。
 そのようなさ中(私には単なる偶然とは思えないのですが)平成7年1月17日早朝、阪神淡路大震災は起こりました。まさに、「昭和20年8月6日、悪夢のような鉄槌が広島に落とされ、街は廃墟と化す。しかし、その中にも天使の愛の導きがあり、救いの道は開かれている。」という様をキャンバスに描き込んでいる時の事でした。昼夜を問わずテレビの画面から飛び込んでくる惨状は、自分が頭で描いていた50年前を錯覚させるくらいのものでした。
 噴き上げる赤い炎。家もビルも崩壊し、高架道路も崩れ落ち、瓦礫の下からは「助けて」の声。炎と煙の中で、家族の名を叫び、泣く声が響く災害の現場。自分にはどうしてあげる事も出来ない惨事の前で、ただ一つ救われた事は震災に遭われた被災者が、その苦境のさ中にあっても、他の被災者を必死で助け出しているその姿であり、全国各地から寄せられる援助の手、そして24時間以内にも出動できる態勢でいる、という海外からの緊急援助隊の申し出のニュースでした。人命救出の為にと、飛行機から降りてきた12匹の捜索犬の姿にも熱いものを感じました。
 期せずして起きてしまった天災。自分勝手な自己主張から火種がついた50年前の人災。どちらの災害についても、原点に返ってもう一度、真剣に考えてみなければならない時が訪れているように思います。

 私の個展のテーマである〜愛と眞を求めて〜
 これは「人を愛するやさしい心」そして「自分の中にある眞」を求めて生きて行きたい、という私の切なる気持ちをタイトルに致しました。
 自分の想いが先に独り歩きしてしまい、それに伴わない現実の自分に苦笑してしまう、こんな未熟な私を、いつも影になり、日向になりながら暖かい目で見守り、御指導して下さいます皆様に何と感謝の気持ちを申し上げてよいのか分かりませんが、自分の発想を自由に絵に表現して行けるという何にも勝る幸せをいつも忘れることのないよう、日々新たな気持ちで歩んで参りたいと思っております。これからもどうぞ宜しくお願いいたします。どうも有り難うございました。 

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