アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
遅くなりましたが、以前の投稿にレスを下さった皆様。ありがとうございました。
大分、冷静さが戻ってきましたので、もう少し詳しく。
先日の事。レストランに行く前の事。
「二、三日・・」という男性の声の幻聴さんが聞こえてきた。初幻聴。
私の寿命ですか?意識が遠くなりかけ、体は異常な寒さに震え始めた。
あ、、このままでは死んでしまうわ。誰か、助けて。友人にTEL。・・・
その間、何も考えられなく、でも何かを考えないと・・・
ただ、ただ、頭の中でピアノを鳴らしていた。
・・・心配気な友人に、一日何も食べてない事を告げると、では、レストラン
へと。 そこから、彼と彼女は、まったく別人へ。 恐かったです。
何故、怒っているか分かるか? ・・・そんなの分かる訳がない。何もしていない。
あなたは、一月末、寒空の下、凍え死ぬのです。 ・・・どうやら、考えている事
までは、分からないようだ。おびえたふり。従順を装った。
メニューが来た。私だけ。でも、お腹がすいているのに、喉を通らない。
前にいる二人が、恐すぎる。落ち着き払った彼女は、私に、ひどい顔、げっそり
して、くまだらけ。 ・・・そんなはず、ある訳がない。ここぞとばかりに、
文句を言っているのだろう。
緊張、恐怖の限界がきたのか、顔がだんだん上を向いていき、口が開いていった。
意識が遠くなりかける。声だけは、聞こえる。
呼吸が止まっている。でも、目がピクピクしている、と。
一旦、死んだ人が20分後に息を吹き返したニュースを思い出した。
少々、死んだふりをして、この二人を追い払おう。眼球の力も抜けますように・・
眼球も止まったようだ。でも、彼女は、しつこかった。
氷でも、口につめとく? ・・・そんな事されたら、本当に死んでしまう。
起こそうとする。 ・・・どうやら、事件の関わりには、なりたくないようだ。
馬鹿に思えてきた。
もう一度、無理矢理に起こされようとした瞬間。私はきれた。
彼に、強打のビンタを与え、 お前ら、一回死んでんだろ! と怒鳴った。
彼も、はっきりと、そうだよ! と答え、彼女にもビンタを。 さっさと帰れ。
二人を追い払い、とりあえず、警察がくるまで、残りのご飯を食べたのでした・・
武田好史さん wrote:
> 『高機能』という言葉のニュアンスが私には良く理解できません。ともすれば、無用な誤解を招く恐れがあると思います。現に以前この掲示板にカキコしてきた人のなかにも、この用語のせいか「自分はお前と同じような馬鹿じゃない! お前のようなやつは死ね!」と、精神障害者の人を罵倒するようなレスを書いた者がおりました。さらには、この言葉の対極におかれた『低機能』の人やその家族が、いわれのない偏見さらされる恐れだってあります。
> 『高機能』だからといって、100%いわゆる『普通』に社会生活を円滑におくれている人は極めて少ないわけですし、そのため適切なサポートを求めている人が多いわけですから……
えー、じつはこの話、あたしが現在執筆中の『「どっちでもいいこと」が決められない。』をどう書くか、に関連していたりするです。以下はその一部。
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一九四〇年代に、それまで「精神薄弱(智恵遅れ)」とみなされていた子供の中に、この精神分裂症によく似た、「智能は必ずしも劣ってはいないのに、自閉傾向が見られる」子供がいることに気づいた人々がいました。
すなわち、「二歳か三歳の子供に、『自閉』を特徴とする精神分裂症によく似たもの」があるということが、わかってきたわけです。
この「『自閉』を主たる特徴とする、幼児に見られる、精神分裂症によく似たもの」を、アメリカの精神科医カナーは「早期幼年性自閉症(Early infantile Autism)」、ヨーロッパの小児科医アスペルガーは「自閉性性格異常(Autistic Psychopath)」と呼びました。当時は、「精神分裂症の子ども版」といった認識だったようです。
で、本来ならこの二つは同じものとしてひとまとめにされそうな気がするのですが、実際にはそうなりませんでした。確かにカナーが報告した病像とアスペルガーが報告した病像はその後「自閉症」というひとつの概念で結びつけられたものの、現在でも「カナー型自閉症」と「アスペルガー型自閉症」は別の概念だとされています。
では、なぜ「カナー型」と「アスペルガー型」に分けられているか。
ひとつは、症状に多少差があるらしい、ということがあったようです。
つまり、
●カナー型には、明確な幼児期の言語発達の遅れがある。
●アスペルガー型には、言語発達の遅れがあっても、それほど深刻ではない。
という差があると考えられていたわけです。
あるいは、原因に対する考え方の差、というのがあったようです。すなわち、
●カナーは「何らかの原因で精神の発達が阻害された結果、起きるものである」と考えた。
●アスペルガーは「性格の極端な偏り」と考えた。
という差があるわけです。
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つまり、
自閉症(カナー型自閉症):精神分裂症に見られるような、極端な精神的孤立(自閉)が見られる精神薄弱(智恵遅れ)児童
アスペルガー症候群(アスペルガー型自閉症):性格が極端に偏った子供
という見方がそもそもあって、「分類としては『自閉症』(カナー型自閉症)なのだけれど、精神薄弱(知恵遅れ)でない」のが、「“高機能”自閉症」という表現になっているのですね。
そんなわけで、
自閉症→精神薄弱(智恵遅れ)
アスペルガー症候群→ヘンな子供(性格が極端に偏った子供)
ということで、精神薄弱(智恵遅れ)かどうかを判定するのにIQテスト(あるいはその結果であるIQ値)が用いられるので、「IQが低くない(70以上)」=「高機能」ということらしいです。だけどIQ高くてもトロい子供で、あからさまにどっかヘンな子供というのはいるぞ。あーうー。(←実例)
だけど、そのヘンさ加減が、ただ「変」なのではなく、“味がある”ヘン、しかも「はっきりした特有の味がある」ヘンだというのが、アスペなんでないか、という気がするのですよ。
うちのJoshyaさんの場合、いちおう健常児で、しかも高IQでした。で、そのJoshyaさんのイトコの子供が、子供の頃のJoshyaさんにそっくりで、しかもアスペであったと。で、それからずーっと経ってから、そのイトコさんがJoshyaさんがどうやらアスペだという話を聞いて、「頭の中で巨大な連環が音を立ててつながった」そうです。
なんつーか、ホントに味があるんですよ。アスペのひとって。「いい味出してるなぁ」「おいしいなぁ」という感じがします(ちょっと心配だけど)。魚イラストレーターの「さかなちゃん」はアスペでしょう、やっぱり。明石家さんまがさかなちゃんをトークのサカナにしてたけど、さんまはさかなちゃんが単なる「世間知らず」だと勘違いしてました。「枠組(秩序意識)が違う」のが分かっていなかったりするわけです。いわば欧米人とアメリカ・インディアンの会話が噛み合わないのと同じ理由で噛み合っていない。
カップ麺、という食べ物があります。あれは「即席ラーメン」の発展形ではあるのですが、非常用食料として世界中で活用されているのですね。すなわち、「保存食」でもあるし、宇宙食や登山用携行食料や野戦用食料のような性質も持ち合わせています。
そうなると、あれを「即席ラーメン」とか「インスタントラーメン」の一種として位置づけるのはいかがなものか。何かそれにふさわしい呼び名があるのではないか。カップスープやカップライスを含めた、何か包括的な名称はないのだろうか。たとえば「準自己完結型保存食料」とか。
……アスペの人って、こういうことを真面目に考えちゃうんだよね。「そんなのどうでもいいじゃん」とか思わない。「筋を通す」「節を曲げない」ことに、実効性がなくても、価値を置く。まあ、これが「こだわり」なんだけど、「関係性の発達障害」と「(単なる「こだわり」ではない)“アスペの”こだわり」がセットになって、「アスペ」に結晶してるところがある。
べつにアスペを讃美しようとも思わなければ、「自閉症には味がない」とか言ってるわけでもないんだけど、なんか「アスペ」っていうひとつの類型、というのがありそうに思うんです。
だから、アスペの要件として、必ずしも「高機能」である必然性はないんじゃないのかな、と思うんですよ。あたしの場合、IQテストの意味を知っているから高いIQを出せる部分があって、そもそもIQというスケールにどんな意味があるのか、あるいはIQを計ろうとしているという意図を隠してIQテストが行なわれた場合、「高IQの人間に期待されている反応」の通りに反応するかどうか、自信がないどころかぜってー無理だと思ってるし。
その意味で、高IQ、つまり高機能のアスペって味わいに欠けるところがある気がします。まあ、それはそれでちょっと違う味出してる人もいるみたいだけど(←オレか?(-_-;) by Mr.Moto)。
(Maria)
皆様、始めまして。自閉症成人の「トクメイ」です。
(“匿名”“とくめい”は既にこちらで使われているようなので片仮名書きします)
HNだに使えない失礼をお許しください。
武田好史さん wrote:
> 軽度発達障害児の教育には、その子の特性を吟味して教え方を工夫することができる専門家の協力が不可欠だと思います。
> こういうと奇妙に思う人がいるかもしれませんが、その専門家というのは、他ならぬ私たち『青年期の軽度発達障害者』なのかもしれません。
> 現に『自閉症だった私へ』の著者ドナ・ウィリアムズさんは、発達障害児の学習の手助けをする仕事をしています。
> 我が国でも、どこかの自閉症の専門家が我々のような者に研修を施して、お膳立てをして下さればの話ですが、優れた『学習指導師』が誕生する可能性があります。
すでに、優れた「学習指導師」は、誕生しています。
例えば、ここの管理人の奥様は、やはりアスペでいらっしゃるのですが、優れた「言語聴覚士」です。
あと、ペンギンさんも、療育のお仕事をなさっておられますよね。
なお、ドナさんは、その後、聞くところによれば、我々のような成人を相手にコンサルタントのお仕事をなされておられるようです。
ドナの“診断”を受けたという方もおられますが、
ドナの“診断”で使われる自閉症を意味する言葉は、社会的呼称である autis-um(自閉「者」)であって、医学用語である aut-ism(自閉「症」)ではありません。
Maria wrote:
> えー、ちょっと古い話。
>
>>
> 「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」は、ときどき使い分けられていますが、「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が同一のものを指しているとすれば、言語の遅れのあるなし(あるいは、言語的コミュニケーション障害の程度の差)が「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」を分けるものであり、「アスペルガー症候群」は「高機能広汎性発達障害の一種である」ということになります。
『高機能』という言葉のニアンスが私には良く理解できません。ともすれば、無用な誤解を招く恐れがあると思います。現に以前この掲示板にカキコしてきた人のなかにも、この用語のせいか「自分はお前と同じような馬鹿じゃない!お前のようなやつは死ね!」と、精神障害者の人を罵倒するようなレスを書いた者がおりました。さらには、この言葉の対極におかれた『低機能』の人やその家族が、いわれのない偏見さらされる恐れだってあります。
『高機能』だからといって、100%いわゆる『普通』に社会生活を円滑におくれている人は極めて少ないわけですし、そのため適切なサポートを求めている人が多いわけですから…
> 「アスペっ子」と言ったときに、この「アスペ」は単純に「アスペルガー症候群」の略ではないように思います。明確な「病像」というか「症候群」というか、「アスペらしさ」という積極的な意味があるように思うんですよ。「まだ飼い馴らされていない野生の思考が、“ことば”として溢れてきている」みたいな感じがするんです。
> この『アスペルガーの館の掲示板』では、「アスペ」あるいは「AS」という言葉に、わりと積極的な意味を持たせて使ってるひとが多いような気がします。
> どうなんでしょう。あなたは「AS」「アスペ」「アスペっ子」という言葉に、どんなイメージを持っていますか?
私は、ハンディに負けずにおおらかなに育っていって欲しいという意味をこめて、「アスペっ子」という表現を使っています。
がんばれ、アスペッこ!
YOU 'LL SHINE BRIGHTLY,SOMEDAY!(^ O ^)
えー、ちょっと古い話。
雑誌『日経サイエンス』2000年5月号(SCIENTIFIC AMERICAN Feb. 2000)に掲載された、P.M.ロディエ(Patricia M. Rodier)『妊娠初期に決まる自閉症(The Early Origins of Autism)』というあんまり評判は芳しくないけれど有名な論文があります。
で、その中の囲み記事によると、自閉症(Autisum)の診断規準というのは三つあって、
●社会的関係の障害
他人とのつきあいに必要なアイコンタクトや表情、ジェスチャーを示すことができない。気楽に過ごせない。同年代の仲間との関係を築くことができない。
●コミュニケーションの障害
言葉で表現できず、それを身ぶりで補うこともできない。十分な発語能力を持っているにもかかわらず、会話を開始したり、続けることが困難。言語に異常がある(例:答える代わりに相手の質問をそのまま繰返すなど)。
●興味と行動の制限と反復
1つの事柄や行動に異常な執着を示す。変化を嫌う。意味もなく日常行動や儀式を繰返し行なう。手をばたばたさせるなどの反復動作。
ということになっているのだそうです。
で、「広汎性発達障害(PDD−NOS)」は「自閉症の診断規準の一つでも満たさないもの」を表わし、「アスペルガー症候群」は「IQが正常で言語の遅れがない患者」を示すのだそうです。ですが、この囲み記事からは、「アスペルガー症候群」が「IQが正常で言語の遅れがない(自閉症の)患者」なのか、それとも「(広汎性発達障害の)患者」なのかは読み取れません。
「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」は、ときどき使い分けられていますが、「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が同一のものを指しているとすれば、言語の遅れのあるなし(あるいは、言語的コミュニケーション障害の程度の差)が「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」を分けるものであり、「アスペルガー症候群」は「高機能広汎性発達障害の一種である」ということになります。
さて……ここでちょっとイヤな話をむし返そうと思います。
「コミュニケーションの障害」と「言語の遅れ」が、あたしたちが知っているAS、あるいはアスペでは、同一の意味を持たないんですよ。
アスペっ子の場合、その会話の内容が、なんというか、多くの人が「宇宙人と話しているような」「ほとんど異次元」と表現するような、そうした、“多くの人にとって”「意味不明な」ものだったりするわけです。
これ、いわゆる「破瓜型精神分裂症」、すなわち現実と意味の乖離が起きている人の会話(吉田戦車の『感染(うつ)るんです』の世界)とごっちゃにされてたりするのですが、そうではなかったりします。むしろ、極端に論理的なんだけど、大人のようにその論理が統制されていないので、意味がつかめない。だから、あたしのような日本語について研究している人間にとっては、なんだかとてもよくわかってしまうし、興味も引かれてしまう。その意味では、あたしはかなり典型的な、“統制された”アスペルガー症候群だと言えると思います。ここで問題にしているのは、あくまで“統制された”ね。“社会化した”ではなくて。
とはいえ、「アスペルガー症候群」の子供が、全部が全部「宇宙人」ではないわけです。そういう「わけのわからなさ」に理解のない親や教師というのもいるわけだし、日本のほとんどの家庭には「親子間の論理的な対話」という習慣がありません。そこには権威とか感情とかに基づく会話だけがあって、「内なる言語」が「統制された言語」として「外なる言語」に成長してゆくことを阻んでいるかもしれません。
「アスペっ子」と言ったときに、この「アスペ」は単純に「アスペルガー症候群」の略ではないように思います。明確な「病像」というか「症候群」というか、「アスペらしさ」という積極的な意味があるように思うんですよ。「まだ飼い馴らされていない野生の思考が、“ことば”として溢れてきている」みたいな感じがするんです。
この『アスペルガーの館の掲示板』では、「アスペ」あるいは「AS」という言葉に、わりと積極的な意味を持たせて使ってるひとが多いような気がします。
どうなんでしょう。あなたは「AS」「アスペ」「アスペっ子」という言葉に、どんなイメージを持っていますか?
(Maria)
ふれ さんwrote:
>聖書では、悪知恵を次のように戒めています。
> ☆ヤコブ3:15
> 「それは上から下る知恵ではなく、地的、動物的、悪霊的なものです。」
私は長いこと「動物的」な母性愛に飢えてました。そしたら出産前の猫が,予行演習に私を抱いて寝てくれました。マザーリング療法です。上等でした。この世から逃げたい気がなくなりました。ヒトの性格を非難しても,誰も救われません。
神という概念は,本能旺盛な人には薬になるのかもしれませんが,傷ある心には毒です。神経症を養成します。知的な善で健康は作れません。「地的」な底力なしには,生活を続けられません。
仏は不足を責めません。不足あればこそ,苦を救おうという主体が阿弥陀仏です。
>Mariaさんwrote
>> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
>私はASについてはまだまだ勉強不足で,言うことが的はずれかもしれませんが,
>もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。
軽度発達障害児の教育には、その子の特性を吟味して教え方を工夫することができる専門家の協力が不可欠だと思います。
こういうと奇妙に思う人がいるかもしれませんが、その専門家というのは、他ならぬ私たち『青年期の軽度発達障害者』なのかもしれません。
現に『自閉症だった私へ』の著者ドナ・ウィリアムズさんは、発達障害児の学習の手助けをする仕事をしています。
我が国でも、どこかの自閉症の専門家が我々のような者に研修を施して、お膳立てをして下さればの話ですが、優れた『学習指導師』が誕生する可能性があります。
Mariaさん wrote:
> 「わからない」ことに魅かれ、「できない」ことに“きゅうっ”となる。「わかるはずだ」「できるはずだ」という信念を大事にしたい。
失敗をおそれずに挑戦していく意志を育てたいと思っています。現在はむずかしい状態ですけど、励ましは続けています。
> ついつい手をだしてしまったり、「ほら、これはこうするのよ」みたいに答えを教えてしまうのは、子供に対してとても失礼なことだとあたしは思います。
日常が忙しすぎるのも、ひとつの理由でしょう。病を得てのんびりしてみると、いかに今の社会が突っ走っているかに気づかされます。両親共に働いていないと食えない人も多い時代だから……せっかちになるんだよねぇ。(←人のことは言えないけど)
娘は小2の夏までおねしょしとったぞ。夜パンツ(大人用の紙オムツ)を履かないと安心できず、眠れなかった。思えば三才半でトイレット・トレーニングを始めてから途中で挫折し、周りじゅうにやいのやいの言われても無視して待っていたら、ある日突然しなくなったんだよ。
学びとは違う話になったけど、「待つ」ことって大切です。
> 親や教師は、「学ぶこと」「発見すること」の楽しさを、失っちゃいけないんです。べつに、机にむかって勉強しろ、とかいうんじゃありません。目を曇らせるな、日常をいきいきと見つめろ、ということなんです。
心が曇りの日もありますけど、元気があるときは一緒にはしゃいじゃいたいですね。楽しいことはおとなも子どもも共に楽しめるものです。(わたしの場合は子どもを差し置いてはしゃいでしまうのが、ちと難点)
> 都会を離れたどこか田舎で、自分で作ったお米や野菜やお味噌やお茶の味をしっかりと確かめ、「そうか、こういうことなんだな」と納得する人生とかいうのも、あるはずなんです。それを「隠遁」「逃げ」と見るのは間違いなのね。ただ、それを「伝える」努力はしてくれなきゃ困る。そう思うから、あたしは書きます。
とーちゃんと虫採りにいくとか、かーちゃんと花摘みにいくとかから始まって、いつの間にか一人であるいは友達と、川へ山へ海へ出かけていく子どもというのも少なくなりました。でも、いなくなったわけじゃないのね。「大工さん」や「農家」になりたいと言う子どももいます。
まだ希望を失いたくないなぁ。おとなだって、やればできるよね、きっと。
> 子育てって、こういうことだと思うんですよ。べつに、毎日じゃなくていいんです。「そうだ、ちゃんとした朝ごはんをつくろう」という日が、月に一度でもあればいいとおもう。なんだったら年に一度、ちゃんとしたお雑煮を作ろうとか、それでもいい。
> 子供の中に、ぶれない芯を作ってやる。それが教育、それが躾、という気がします。
いつかは何かになるんだものね。どれだけ「楽しい」を積み上げてやれるかが、大事なんですね……。
> 子供のいないあたしが言うのも、口はばったいけど。
いえいえ、いずれは子育てするでしょ? そんときゃ仲間よ、楽しんじゃいましょ。たくさん、ありがとうございました(^o^)
こーさん wrote:
> ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
> アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
> 宜しくお願いします。
こちらこそ。m(_ _)m
最近いろいろあってボーダーライン性格(境界症例とは違います。念のため)の人には冷淡というより攻撃的なあたしではありますが、このサイト、人を甘やかさない(所詮は他人事だし。基本的に他人に入れこまないのが自閉症方面の人間)反面、「自分でなんとかしたい」と思ってるひとに客観的な助言をするという点ではけっこう定評があるようです。
> 会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
> 私がやめるときはみんなで祝賀会をしたことを聞いて本当にショックでした。
> 自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
> 苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
> 機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
> ことをしないのだ。とやっと分かりました。
えー、こーさんは男性のようですが、社会性や能力はあるのに自己認識に自信がないという、「自分は普通ではない」という違和感をお持ちであるようにお見受けいたします。
なんでかっていうと、「部署の人間全て」「みんなで」「いつも」とかいった誇張がある反面、「されていたらしく」「聞いて」「普通の神経では」といった、ちゃんとそれに対するバランスを取ろうとする配慮をしてらっしゃるからです。
たぶん世の中にはこーさんより傍迷惑な存在は厭んなるくらい存在するし、そういう連中のほうがこーさんよりよっぽどでかい面をしています。だから他人に迷惑をかけていいっていうものでもないのですが、とりあえず、それほど迷惑にならない範囲で人に甘えることを覚えるのもいいかもしれません。
> それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
> 最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
> やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シミュレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
> 普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
> はっきり指摘されたこともあります。
役に立ってないクズがどう立ち回ろうと冷笑されるだけです。女性で有能だったらまたそれなりの軋轢もあるので、あたしはこーさんが男性で有能な人だと判断しました。
嫉妬には対処する方法がありません。有能な人を仕事上のパートナーとして選んだほうがいいと思います。
> 最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
> 今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
あたしにはあたしを認めてくれる大勢のひとがいます。こーさんにもおそらく一人くらいはいるはずです。誰か大事なひと一人に認めてもらえれば、わりと簡単に立ち直っちゃうと思います。
あたしのよく知っているひとで、結婚したとたんにいきなり若返ってしまい、ご近所で「何があったんだ」みたいに噂になってしまったひとがいます。「どうやらひと回り以上も年下の女性と結婚したらしい」「やっぱり」。何が「やっぱり」なのかわかんないけど、「誰かに愛されている」というのは、絶大な自信になります。
それ以外にも、「あの人は、何かやる人だ」みたいに才能を信じてくれているひとがいるというのは、やっぱり自信になります。仕事を通じて知り合ったひとが、励ましてくれるかもしれません。「ずっとご無沙汰してていまさら連絡をつけるのもなんだし、ひょっとしたら私のことなんか忘れてるかもしれない」みたいなことを考えずに、連絡を取ってみるのはどうでしょう。忘れられてたら忘れられてたでいいじゃないですか。まあ、恨まれてたら厭だけど、それはそれで反省材料にはなるし。(←あたしもあっちこっちご無沙汰してるなぁ……人に言うまえに自分でしろっていうのよね、まったく)
そんなわけで……無理せずぼちぼちいってください。
結果がよければいいですね。あたしも人が不幸になるより幸せになってくれたほうが嬉しいし、それに自分が寄与できたと思うと、嬉しいですし。
(Maria)
こー wrote:
>初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
>人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
>会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
>私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
ひどいやつらだ!
>自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
>苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
>機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
>ことをしないのだ。とやっと分かりました。
>それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
>最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
>やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
>普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
>はっきり指摘されたこともあります。
>最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
>今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
これは悪質ないじめです。辞めて正解だったかもしれません。
>ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
>アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
>宜しくお願いします。
かなりその可能性は高いと言えます。ただASかどうかということは、専門家(児童青年精神科医)の先生でないと判断できません。
知能には『結晶性知能』と『流動性知能』の2種類があるようです!
『結晶性知能』というのは、言葉や経験を通して蓄積されていく知能であり、「富士山の高さは3776m」「うらぶれた=落ちぶれた」「1+2=3」というように、『AはBである』的なことをどれだけ理解しているかということを指すようです。仕事にはあまり必要ありません。
これに対し『流動性知能』は、新しい状況に適応していくための知能で、「間違え探し」や「図形にまつわる計算」「文章題を解く」「物事のパターンの検出」「設計図の読解」「人の動作を模倣する」といった、『想像力』を要求される作業的な能力で、仕事をできたり・スポーツが優秀な人は、これが優れているようです。
WAIS−R知能テストの『積み木模様』課題は、流動性知能の検査の一例で、これからやる人もいると思いますので詳細はお伝えしませんが、パズルの問題です。ある有名サッカー選手は、この得点が人並みを外れてよかったそうです。
ASや非言語性LDの人の中には、『結晶性』のほうは良いけど『流動性』のほうはボロボロという人が多いような気がします。私もその中の1人で、30になっても無職のままでいる一因です。とにかくめちゃくちゃな『不器用』で、融通が利かないほうです。センター試験の数学で2回も惨憺たる得点で、行きたかった国公立の大学には進めませんでした。
AS(or非言語性LD)=流動性知能発現不全症候群
なのかな(〜_〜)?
I wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
あさかぜさん wrote:
> そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。
あたしが育った家には和室があって、ガラスのサッシに飾り格子があしらってありました。で、それが4×7の格子になってたのね。
で、ある角からつーっと斜めに小さな四角の対角線をたどって、どこかの辺につきあたったらそこで“反射”して、それを繰返してまた角につくまでたどってゆくと、すべての小さな四角を一回づつたどることができるのね。
それができるのは、縦と横の四角の数が素になっている場合(最大公約数が1の場合)であることに気づくまで、十年以上かかったかなぁ。とにかく、コンピュータのプログラムを書くようになってから、あらためて分析してみて、「ああ、そうか」と思いました。
「わからない」ことに魅かれ、「できない」ことに“きゅうっ”となる。「わかるはずだ」「できるはずだ」という信念を大事にしたい。ついつい手をだしてしまったり、「ほら、これはこうするのよ」みたいに答えを教えてしまうのは、子供に対してとても失礼なことだとあたしは思います。
だから、あたしは「同じレベルの仲間」の間で「わからないヤツ」「できないヤツ」を差別するのはいいことだと思ってます。「わかった」人間と「わかってない」人間、「解けた」人間と「解けない」人間は、別の世界にいるんです。
パズルは、自分で解くからおもしろい。その楽しみを奪っちゃいけません。それは推理小説を読んでいる人に、「犯人はこいつだよ」と囁くようなものです。
パズルの「解き味」というのがあります。「ああ、そうだったのか」という爽快感と、「おお、よくできている」という感動。
大人は、子供がつまらないことに昂奮している、と呆れたりします。わかってないなぁ、と思うんだよね。プログラマーも十年やってるとすれっからしになっちゃってさ、「番兵(センチネル)」とか「いけにえ」とかいった技法だともう昂奮できなくなっちゃうのよね。新人プログラマーが、「こっ……こんなテクニックがあったんですか!」とかいって驚いてると、「ああ、あたしもこういう時期があったわね」としみじみしてしまう。バブルソートとセレクションソートとクイックソートの効率を比較して「ほー」とか感心してた時代にはもう戻れないのね、とかいって涙してしまいます。
子供の感動を共有できないっていうのは、子供の頃のそうした体験を忘れてしまっているということであり、ものごころついてからそういう体験を積みかさねてないってことなんですよ。
だから、親や教師は、「学ぶこと」「発見すること」の楽しさを、失っちゃいけないんです。べつに、机にむかって勉強しろ、とかいうんじゃありません。目を曇らせるな、日常をいきいきと見つめろ、ということなんです。
ファイナルステージを考える会・編『末期がん情報 余命6カ月から読む本』海鳥社、という本が、いま手元にあります。その中に、『余命6カ月からの楽しみ おいしい粥…コトコトコトコト気長に炊いて』という一文があります。
うちの所長のJoshyaさんが、突発性拡張型心筋症と診断され、「平均余命が五年とちょっと」ということを知ってから、この本に出会いました。当時は、平均余命を超えて生きるのがなんだか申し訳ないみたいな気持がしてたそうです。自分が余計に生きると、他の人の余命が減っちゃうんじゃないか、と。で、そんななかで、この本を読んで「お粥のおいしさ」というものに出会ったのですね。それ以降、昆布出汁とか、梅干とか、かつおぶしとか、お茶とか、いりこ出汁とか、そういった「日常の中にあたりまえにありすぎて、ちゃんと味わっていなかったもの」を掘り下げるようになりました。
あたしたちの日常というのは、ほんとうはこんなに豊かだったんだ。そういう気持を、病気するまで持つことができなかったことが、寂しいと思います。まあ、当時はバブルまっさかりだったしな。小市民的な幸せ、というものが、大事にされない時代だったし。
都会を離れたどこか田舎で、自分で作ったお米や野菜やお味噌やお茶の味をしっかりと確かめ、「そうか、こういうことなんだな」と納得する人生とかいうのも、あるはずなんです。それを「隠遁」「逃げ」と見るのは間違いなのね。ただ、それを「伝える」努力はしてくれなきゃ困る。そう思うから、あたしは書きます。
子育てって、こういうことだと思うんですよ。べつに、毎日じゃなくていいんです。「そうだ、ちゃんとした朝ごはんをつくろう」という日が、月に一度でもあればいいとおもう。なんだったら年に一度、ちゃんとしたお雑煮を作ろうとか、それでもいい。
子供の中に、ぶれない芯を作ってやる。それが教育、それが躾、という気がします。
子供のいないあたしが言うのも、口はばったいけど。
(Maria)
初めまして。私は社会に出てから初めて自分では選択不可能な対人関係で
人と衝突し、人に嫌われまくり、今ではひどい抑うつ感に悩まされています。
会社では部署の人間全てに変人で嫌なやつ、という見方をされていたらしく
私がやめるときはみんなで祝賀回をしたことを聞いて本当にショックでした。
自分では仕事は一生懸命やってるつもりだったし、人と仕事以外で話すのが
苦痛だったので、それを態度にもろに出したり仕事が終わったら
機械的にいつも家に帰るという毎日で、今から思えば普通の神経ではこういう
ことをしないのだ。とやっと分かりました。
それでも仲がよかった人はいたのですが、その人たちも私をよく思ってない人と
最後は徒党を組んで孤立状態になりました。
やはり何でも新しい環境がすごく苦手でおびえさえしていたこと、シュミレーションとおりに動いていると(人から何かをしてもらったらすぐに有難うと言うなど)
普段融通のきく態度をとってないくせに変に計算高いところがあると
はっきり指摘されたこともあります。
最後には誰も私を相手にしてくれず、後輩からもひどい態度をとられ自信喪失、
今ではそのことが尾をひいて早く死んでしまいたいと自虐的なことばかり考えるようになってしまいました。
ちょっと前まで自分なりに必死で調べて、人格障害かもしれないと思いつつ
アスペの方もかなり思い当たる節があってここにたどり着きました。
宜しくお願いします。
Mariaさん wrote:
> 「わかる」ことは、「おもしろい」。「できる」ことは、「たのしい」。
そう、これなんですよ。学校の先生に、ここを考えて欲しいと思うのね。
困難がたくさんあっても、子どもに「学習の機会」を与えてやりたいと願わない親はいないと思うんです。でも、「まず学校へ来ること、教室へ入ること」が前提なんです。学校へ行っても教室に入れない生徒は、不登校とは呼ばれないけど「学習の機会」を与えてはもらえません。遊んではいますよ。出席扱いにもなります。で、それだけなのね。
娘は通常学級は無理だから、特殊学級をお願いしました。いい先生で、心配はしてくださいます。でも、とにかく「学校へ連れて来ること、教室へはいること」ができないうちは、学校と連携して自宅学習を行いたいとお願いしても、受けてはもらえないのです。学校へ顔だけ出せれば「出席」ですが、本当にそれでいいのか?と思ってしまいます。
わたしだって税金を納めている日本国民のひとりなのよ。子どもの「学ぶ権利」を保障してやれない情けなさを、どうすればいいんでしょう。(タメ息)
> 「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。
怖いですよ、確かに。何のために学校教育制度があるんでしょうか。
発達障害を理由に“学校をさぼっている”とか、免罪符のように使って“ずるい”とか言われたくないです。こっちだって必死でやっているんですよ。「学ぶことは楽しいこと」だって、教えてやりたい。基礎学習くらいは、きちんと受けさせてやりたい。その方法を模索しているのに、肝心の教育の専門家が役に立ってくれないのでは……。
「あとは、お母さんががんばって学校へ連れてくるだけです」って、学校へ連れて行きさえすれば、ちゃんと教育を受けられるってことなの? 本当にそうなの?
とてもそんな感じはしないんですけど。
Mariaさん、いろいろとアドバイスをありがとうございました。
> 文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。
> いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。
> 道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。
日常生活のなかでできることは、常に探して一緒にやっていくつもりです。
> でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。
> 焦ることはないと思うぞ。
はい。ありがとう。元気が出てきました。
> 伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。
これからの時代はそういう方向へ行きそうですね。「個」の能力をつぶされることなく生かせる方向へ、少しずつでも変わってゆくことを願います。また、わたしたちが変えていけるかもしれないこと、ひとつずつでも変えてゆくための働きかけは何ができるかを考えながら、娘と共に育ちたいと思います。
>Mariaさんwrote
>> 「学習指導士」みたいな人って、いないのかな。(←「あんたがやんなさい」とか言われそうだな(-_-;))
ピーブーさん wrote:
>もっとASについての認識が広がって,「学習指導士」みたいな人の必要性がはっきりすれば,きっと増えていくのでは・・・と,思ったりしています。
「学習指導士」…こういう人は、大いにほしいですね。でも、まずはAS等の発達障害を知り、理解してもらうことから始まるのかな?
(「してもらう」というのも、なんか違う表現という気がしますが…。)
私もへたくそな字を書くので、きれいな出来上がりは書類関係では、大体あきらめています。
パソコンではがきサイズで色々なことを書いて、印刷したあとで、はさみで切り取ってのりで貼り付けるという苦肉の策で切り抜けたことよくあります。この手はすべての書類には使えないのですが、学校関係なら先生にお話して了解を得ておけば、案外やれると思います。
I wrote:
> 当時東海クリエイトという会社から出ていた初期のワープロ・ソフト
たしか『ユーカラ』です。言語工学研究所の『松』やジャストシステムの『JWord太郎』(現在の『一太郎』)が八万円代だったころに、ほぼ半額だったような気がします。
当時、ワープロというと「清書に使うもの」という通念があって、「べつにわざわざワープロを使わなくても、手書きでもいいのに」と言われました。プリントアウトを持っていって、「これに赤を入れてください」というと「もったいない……」と言われました。
ビジネス文書なんて、ほとんどは場所・日時・品名・単価・個数あたりがちょこちょこ違うだけなので、そういう書式の文書を一度作ってしまえば、あとは文書ファイルをコピーしてちょっとだけ変えればできあがり。ビジネス文書だから「ワープロの文字には心がこもってない」とか言われなかったし。
世間ではオフィス・オートメーション(OA)化がどうのITがこうのとか言ってるけど、実際のビジネスはなぁーんにも変わっていない気がします。ビジネスの「形」、モノ・カネ・情報の「流れ」というものが見えてないと、けっきょく何もできない。ただ、与えられた仕事をこなすだけになってしまう。
日本の高度成長期、中卒が「金の卵」と云われ、地方からの集団就職が盛んに行なわれて、それが上野駅の風物詩みたいになっていた時期があります。「標準語」がやかましく言われたのもその頃です。質の揃った使いやすい単純労働者を生産するのが、当時の義務教育の目的でした。
だけど、いまやそういう「質の揃った使いやすい単純労働者」は、中国にもベトナムにも大量にいます。「いわれた仕事を、着実にこなす」だけでは、もう対抗できない時代になってしまいました。むしろ、そういう作業は機械にやらせたほうがいい。伝統工芸や特種技能に類するような、高度に訓練された人間でなければ作れないものを作り、高度な教育を受けた人間でなければできない仕事をすることでしか、日本人は生きてゆけなくなっちゃった、と思ったほうがいい。
あさかぜさん wrote:
> 学校の担任に「ええ、ええ、今は計算するにも電卓がありますし、字を書けなくてもワープロがありますからね」と突っぱねるように言われたことが、心のどこかにこびりついていて……
人間が電卓やワープロの代わりをしても、いいことはなんにもないのね。もちろん、「コンピュータなんか理解しなくていい。コンピュータが使えればいいのだ」みたいな「ブラックボックス」的な考え方もどうかと思うけど、それはそれで一つの見識ではあると思います。
「学校の勉強なんか役に立たない」なんていうことを、平気でいう人がいます。それはとても怖いことだと思います。自分のしていることの「意味」や「位置づけ」が失われているのに、平然としていられる。あんたそれじゃロボットだってば、と言いたくなります。
文章を書くこと、計算をすることが、自分の生活にどうかかわってくるのか、ということを、ちゃんと子供に伝えなきゃいけない。
昔の寺子屋の読み書きの教材は、「往来物」といって、現代のビジネス文書や手紙の例文集みたいなものでした。で、そろばんの教材は、「××の売り買い」ばっかりで、「米の値段が銀レートでこれこれ、金と銀の交換レートがこれこれだとすると、金一分で米がどれだけ買えるか。あるいは米をいくらいくら買って、その釣り銭を銀でもらうといくらになるか」みたいなことを題材に計算をするわけです。宮沢賢治は「数学がなんの役に立つのか」と質問されると、「連立方程式を知らなければ肥料の計算ができません」と答えるのが常だったとか。「田んぼの形がこれこれだと、面積はこれこれ。そこに反当たり××キログラムの肥料を施すとすれば、全体で○○キログラムの肥料が必要」とかいう話は、非常にわかりやすい。「米1合(180ml)が150グラムだとして、五キログラムの米は何升何合か」なんていうのでも、いい。
で、こうした枠組の中でなら、いろんな計算をしても意味があったりするんです。「一合が百五十グラムだと、三合で四百五十グラムだから、三升で4.5キロで、三升三合で五十グラム余る。だから三升三合+1/3合」みたいなやり方もあれば、5000÷150で計算する方法もある。「割合」「比率」「量」「単位」といった考え方や、いろんな計算のテクニックみたいなものまで、いろいろと手を動かし頭を使って試行錯誤してみることで、イメージをつかんでゆく。こういう行為と、ただただ計算練習を繰返すのでは、意味が違うんです。
もちろん、純粋な計算練習には計算練習で「数構造の美」みたいなものもあるんですが、それはそれでまた別の話。これだって、「構造」という全体イメージがあって、その中にひとつひとつの問題があてはまってゆく。
道具だとかテクノロジーだとかテクニックだとかいった、目先のことに惑わされないほうがいいと思います。子供の頃に、「概念」「イメージ」をいっぱい貯えておくというのは、だいじです。とくに、「ものを作る」ことをいっぱい体験させておくと、大人になってから、いろんな意味で役に立ちます。
「大匙十二杯は、何ミリリットルですか?」みたいなケースもあるでしょう。十五×十二=百八十、みたいな計算が、できないことだってあります。そういうときは、「大匙で十二杯計って、何ミリリットルになったかをカップに入れて計る」ことだってできるんだから。「百七十五ミリリットル」だったら「ほぼ合っている」わけで、精度は二桁近く出てます。「量が多いと煮詰まり加減が少ないから、調味料の量は同じでも水は少なめ」みたいな話もあるわけで、「実際にやってみると、必ずしも計算通りにはいかない」こともわかってきます。十八リットル(一斗)の塗料を二十五ミリリットルの容器に小分けしてぴったり六ダースの製品ができるかというと、できません。だいたい足りんなかったり余分にできちゃったりするのね。
でまあ、そんなこんなですったもんだしてるうちに、「量の感覚」と「数の感覚」が統合されていって、計算も要領よくできるようになったりするんですよ。そうなるのはたぶんずっと先、高校生とかになってからです。
焦ることはないと思うぞ。
(Maria)
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