アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
国外逃亡者 wrote:
>自称アスペです。
>アスペルガー症候群というものが知られる何年も前に自分の異端性について悩み、日本が自分にむかないのかなーと思って、国外逃亡しました。
>アスペルガー症候群なるものを知っていろいろな疑問が融けましたが、なおさら日本にはむかないなーと感じています。
>
>今は言葉と文化の壁に守られて(つまり、頭から異端者として受け入れられているということ。ここの常識は教えてもらえる。会話でもたつくのは当たり前なので、始めから我慢強くて興味のある人しか語り掛けてこない。子供たちの学校・幼稚園の役員は始めから免除←これがラッキー。移民国家なので少しくらい奇矯な行動は目立たない)滅多なことで人の集まるところにも行かないし、仕事も在宅や臨時のガイドくらいなので、精神的負担もなく楽しく暮らしています。
私は十代の頃にそれなりに親しくしていた同級生から「あんたは頭が日本人じゃない」と言われました。
その後、日本人じゃない人と親しくなり、その人の国に何度か中期滞在したりする中で、
国外逃亡者さんと似たようなことを感じて、非常に楽だったのをよく覚えています。
細かい言い回しやレトリックが理解できないのは、母語でない以上当たり前であること。
私が嫌だった「日本の文化の中での一般常識」が、その文化圏では一般常識でもなんでもないこと。
非常に卑近な例で恐縮ですが、後者の例で何が一番嬉しかったかというと、
「女性が真夏の薄着でブラジャーをしていなくても誰もヘンな目で見ない」ことでした。
私は体にぴったりする衣類が非常に苦手で、特に、拘束感のあるものは大っ嫌いです。
ブラジャーなどというのはまさに「胸部を拘束(市場では『補正』という言い方をするようですが)するための下着」ですから、本当に嫌いです。
ですが、日本では、
同性には「しないのはだらしない」とか「はしたない」と言われ、
「異性は薄着でブラジャーをしていないと『ヘンな目』で見る」という事実を知っているので、仕方なくしていた時期もありました。
(その拘束感の不快さに耐えられず長時間の外出ができなかった、パニックを起こしかけたなど、行動に制約が生まれてしまったこともあります)
いろいろ試行錯誤して、今は「ヘンな目で見られない」ことと「拘束感が極力少ない」ことが両立するような下着を選んでいます。
ハズレに当たることも多いですが、がんばって探せばなんとか見つかるものだなあと思いました。
ちなみに上記の「事実」(に類すること)を知ったのは11〜12歳の頃でした。
その頃まで銭湯等では男湯に入っていて(母親はいましたがそういったケアを放棄していたので父親と)、
ある日、湯船で一緒になった少し年上の少年が、私の体を異様な目(に見えた)で執拗にじろじろ見ているのに気がついて、
「私は異常事態を引き起こしているのだ。私がここにいるのは不適切なことなのだ」と認識し、
以来「男湯は現時点では私はもう入ってはいけない場所なのだ」と認識したのでした。
>「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
>自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
>この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
私は今のところ悩んではいないのですが、
もしかしたらこの先、悩むような事態に直面することがあるのかもしれないなあと思っています。
そのときに備えて、「愛情」とか「恋愛」といった、今のところ私には不可解なものを、少しでも理解しておきたいな、と思うのです。
まあ、いざそうなったときに、そのときの細かい状況に合わせて対処すればいいのかもしれませんが。
>恋というのは孤独を悲しむ(孤こ・悲ひ/こひ)心から来るものなので、
そうなのか〜。なるほど。
語源というのはかなり「本来の意味(本質?)」の手がかりになるものなのかもしれませんね。
>このことで苦しんでいるASの人たちに、悩まず気楽に、そして気長に向き合っていけるよう、遠い空の下から応援しています。
国外逃亡、正直、うらやましいです…。
ただ、「今の生活環境がガラッと変わる(自ら敢えて変える)」ことは今の私には受け入れがたい。
何らかのきっかけでやむなくそういう事態になれば別ですが、
今のところ現実的には「パートナーについていく」というシチュエーションしか想像がつかないのですね(^_^;)
(仕事をしに行くとなると、私ができる分野では、今以上にコミュニケート行動を取らなくてはいけない…)
で、その「パートナーを持つ」という問題でつまづいているというわけです。
Maria wrote:
>りるさん wrote:
>> 私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、かなりのカルチャーショックを受けています。
>
> えー、それはおそらく、この『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーが、『「まったくの異文化」を背景にした人と「同じ土俵に立つ」』作法を心得ているからではないでしょうか。で、そういう作法というのは、研究開発の世界では、わりと一般的なものだと思うのですよ。
ここだけ誤解ではないかと思うのですが…。
「私が今直面してるカルチャーショック(=まったくの異文化を背負った人と初めてまともに接した)」というのは、
先日のここでの(123さん関連の)話ではなく、まるっきり別の、私個人の、オフでのプライベートな話なのです。
更に、この掲示板には私は最近来たばっかり(ROMもしていなかった。そしてROMを始めるのにちょっとだけ遅れて参加を始めた)なので、
ここでは「うわ心地ええ!こんなコミュニティもあったのねー!」というプラスのカルチャーショックを味わい中だったりします。
とりあえずそこだけ補足しときます〜。
後の発言は非常に興味深いので、じっくり読みます。
しばらく前から、ROMだけしていました。正式な診断も受けていない人間が、
こういう場所に書き込みをするのは、ちょっと気が引けるのですが、
恋愛については、私も自分なりにいろいろと考えることがあったので、ちょっとだけ意見を言わせてください。
国外逃亡者 wrote:
>以前、どなかたかの投稿に「アスペは愛が理解できない」的な発言を見て、ずっと気になっていました。
>ちょっと、違うような気がして・・・。
>全人類的に、愛を、恋・独占欲・情欲と混同してそれを愛と思っている人は大勢いますよね。
現在、ドラマやマンガ等で安売りされている「恋愛(=ロマンチック・ラブ)」というのは、中世ヨーロッパの貴族の宮廷で「発明」された概念だそうです。その本来の意味は「神を愛するように恋人を愛する」ということですから、独占欲や情欲とは無縁のものでなくてはなりません。
実際、中世の騎士物語では、騎士と貴婦人が肉体関係を持つことは許されないし、最後は必ずといっていいほど悲劇に終わります。
キリスト教文化の背景を持たない日本人には、もともと理解しようのない概念です。つまり、現代の日本人の恋愛至上主義は、本質的な意味もわかってないくせに、表面的な形を真似ただけの似て非なるものにすぎません。
>でも、淡白だからって、人を愛さないわけではないのでして。
>自分にとって大切な人を見つけたら、自分の中にその人の居場所を作って(その人を受容する)大切な人を幸福にしたいと感じるのじゃないかと思います。
昔、キリスト教の宣教師が初めて日本に来たとき、神への愛(アガペーでしたっけ)をどういう日本語にするか悩んだ末に、「御大切」と訳したそうです。
達観だったと思います。国外逃亡者さんのおっしゃるとおり、愛とは「誰かを大切にすること」なんです。
>だけど、障害のあるなしにかかわらず、恋という罠にはまる人は後を絶ちません。
>「恋」というのは愛ではなく、「相手の事を思うと何も手に付かなくなる」とか、
>「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
>自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
>この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
幸か不幸か、生物には生殖本能がありますからね。気に入った異性を見つけて、その相手に、自分の子供を作らせたいと思うのは本能の働きです。その本能的な衝動を理性でコントロールされるべき「愛」と混同してしまうと、大変に困ったことになります。
巷で安売りされている恋愛など理解できなくても、いつかきっと「大切な人」は見つかるはずです。その時が来たら、自分のその「大切」だという気持ちを忘れないようにしてください。
長カキコ、失礼しました。
自称アスペです。
アスペルガー症候群というものが知られる何年も前に自分の異端性について悩み、日本が自分にむかないのかなーと思って、国外逃亡しました。
アスペルガー症候群なるものを知っていろいろな疑問が融けましたが、なおさら日本にはむかないなーと感じています。
今は言葉と文化の壁に守られて(つまり、頭から異端者として受け入れられているということ。ここの常識は教えてもらえる。会話でもたつくのは当たり前なので、始めから我慢強くて興味のある人しか語り掛けてこない。子供たちの学校・幼稚園の役員は始めから免除←これがラッキー。移民国家なので少しくらい奇矯な行動は目立たない)滅多なことで人の集まるところにも行かないし、仕事も在宅や臨時のガイドくらいなので、精神的負担もなく楽しく暮らしています。
以上、自己紹介でした。本題はここから。
以前、どなかたかの投稿に「アスペは愛が理解できない」的な発言を見て、ずっと気になっていました。
ちょっと、違うような気がして・・・。
全人類的に、愛を、恋・独占欲・情欲と混同してそれを愛と思っている人は大勢いますよね。
一般に双子座とかは淡白であまり溺れるような恋はしないと言われていますし、さそり座なんかは情熱的だなんて言われていますよね。
常に愛着を確認したがる魚座が理性的な天秤座に惚れちゃったら、誠意のない(と魚座には思える)相手に失望するばかりでしょうし。
これらはあくまでたとえですが。
でも、淡白だからって、人を愛さないわけではないのでして。
自分にとって大切な人を見つけたら、自分の中にその人の居場所を作って(その人を受容する)大切な人を幸福にしたいと感じるのじゃないかと思います。
だけど、障害のあるなしにかかわらず、恋という罠にはまる人は後を絶ちません。
「恋」というのは愛ではなく、「相手の事を思うと何も手に付かなくなる」とか、
「好きな人が他の異性と仲良くしていると嫉妬してしまう」とか、いわゆる、
自分の満足と快楽を求める「ドーパミン過剰分泌状態」であって、「中毒症状」なのです。
この心の病と無縁な脳の状態のある人間(何もアスペとは限らないです。ただ単に淡白で、愛情云々より楽しいことに夢中な人には迷惑なことです)が、恋を「愛」と錯覚している人に「あなたは愛情のわからない人だ」と言われたからと言って、何も悩む理由はないと思います。
恋というのは孤独を悲しむ(孤こ・悲ひ/こひ)心から来るものなので、孤独を悲しいと思わない自閉傾向のあるひとには確かに理解しにくいものでしょう。
ドナさんの著書にも、愛情を示すことの困難さが描かれていますが、それはつまり、あれだけ重い障害を持っていても、愛する能力は持っていたわけです。
ただ、周りに理解されにくいだけで。
でも自閉症の自分と出会ってから、自分から外の世界に手を伸ばそうと努力されてますよね。
一生施設で過ごせる障害でない以上、「世界」と折り合う努力は一生ついて回ります。
「愛情」は乗り越えるべき課題のひとつにすぎないと思います。
このことで苦しんでいるASの人たちに、悩まず気楽に、そして気長に向き合っていけるよう、遠い空の下から応援しています。
りるさん wrote:
> 私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、かなりのカルチャーショックを受けています。
えー、それはおそらく、この『アスペルガーの館の掲示板』のメンバーが、『「まったくの異文化」を背景にした人と「同じ土俵に立つ」』作法を心得ているからではないでしょうか。で、そういう作法というのは、研究開発の世界では、わりと一般的なものだと思うのですよ。
例の123さんの発言に対するコメントとして、あたしは以下のようなことを言いました。
---
> 貴方方の言うアスペルガーのすばらしい才能ってどういうものですか?
普通の(健常の)人々とは異なっている、ということです。そのことは、しばしば世の中において(特に問題解決に関わる部分で)有利に働きます。
> 具体的に何ができるのですか?
普通の(健常の)人々とは異なったやりかたで無理なく生きることができます。それはしばしば普通の(健常の)人々が望んでも得られない境地だったりします。
> LDやADHDの行動、思考をどこまで認識して発言しているのでしょう?
123さんが、「LDやADHDは、自分の障害を認識できない」と信じておられるなら、その質問自体が無意味です。「認識している」ならば、LDでもADHDでもないはずですから。
> もしかして、自分は天才だ。自分にはすばらしい才能があるのに
> 社会は誰も認めてはくれない。そんな感情が貴方たちのうらにあるようにしか、私には思えてなりません。
あなたは、「障害者は自分の才能や能力を信じたり誇ったりしてはいけない」と主張なさるわけですね?
なお、あたしは、自分に才能があるために、あたしが障害者であり、あたしのその才能が本質的にその「障害」の「症状」そのものであるということが信じてもらえなくて苦労しています。
---
で、実際、プログラマーとしての仕事の中では、「異質な文化を背景にしている」ことがプラスに作用することが多いんです。
それは、左利きのボクサーが有利なことに似ています。相手は左利きのボクサーと対戦したことがほとんどないのに、こっちはほとんど常に右利きのボクサーを相手にしているわけですから。
つまり、「普通の発想で解決できる問題は、たいていの場合、すでに解決されている」から知識によって(つまりありものをパクッてくることで)解決でき、「普通の発想では解決できない問題」は、たとえ解決できなくたって文句は言われませんから。そんなわけで、研究開発に携わっている人間は、「誰も思いつかなかったこと」「まだ誰も試していなかったこと」を追いかけることに血道を上げているわけです。
> ある言動について、
> 「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
> おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします……。
「常識」というのは、けっこう偉大なものです。工学の世界では、「車輪の再発見」という言葉があって、ものを移動するにはけっきょく車輪を使うのがいちばん実用的だったりするわけです。
そんなわけで、「常識」は十分に掘り下げる必要があるのですが、多くの人はそこのところをサボって、単なる思い込みに引きずられています。
「常識に従うべし。一般の愚に従うべからず」です。
> ふと思ったのですが、
> 「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」という「ロジック・思考回路」もあり得るのかな、と。
> (例にあげた人がそうだというわけではありませんが。
> あまりにも会話が噛みあわず、理解の手がかりになるような充分な情報量はほとんど得られませんでした)
応用数学という分野に「ゲームの理論」というのがあり、その中の意思決定理論というのによれば、「合理的判断は、必ずしも合理的な結果をもたらさない」ということが分かっています。「囚人のジレンマ」という名前で知られているのですがね。
で、人間(あるいは動物)というのは決して合理的には行動しないように見えて、理性による合理性を越えて行動していたりもするわけです。
「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」ではなく、 「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はするけれども、自分の行動を決める際には必ずしもそれを考慮に入れない」という態度が、相手の行動を変えるケースが実際にあります。
マイノリティにはマイノリティの戦略・戦術があり、マイノリティであるがゆえのアドバンテージもあります。そうしたものを、スタイルとして身につける、というのは、一つの方法として覚えておくといいと思います。
(Maria)
今度、川へ行って釣りをする予定です。誘い釣りというやり方がありますが、それを自己流に変えて、魚の闘争本能をうまく使って釣り上げるやり方でわたしは楽しんでいます。管理釣堀で、1時間半くらいの間に10匹釣ったことあります。岩魚、やまめなどでしたが、後で食べておいしかったなあ。人とはダメでも、魚とは結構うまくいくようです。釣りの好きな人、アスペに居そうだけど、みなさんはどうですか?
この間まで、たまたまあつみさんの発言を機になんだかすごいことになっていましたが、
あつみさんが妙な責任を感じたりへこんだりしておられない様子でほっとしています。
あつみ wrote:
>しかし私は、ネットでのコミュニケーションというものに今までになかった可能性を感じます。(中略)
>今回も、もしあんくさんや、他の方々のご意見がなければ、「私はまた何か悪いことをしたのだな」と理由も分からず思いこんでいたでしょう。そして自分一人で考えて、誤った結論に至っていたと思います。
本当にそうですよね。私もいろいろと勉強になりました。
>「他人と一緒に生きていく」という現実の問題に取り組んでいるうちに「自分の今後の生き方をどうするか」ということに繋がった、というか。(中略)
>なんとなく見えてきたテーマというのは、「異文化コミュニケーション」(こんな言い方が合っているのかわかりませんが)の達成、のようなことです。幼い頃から、みんなとうまく波長を合わせようと努力してきましたが、上手くいかず、最近になって、同居中の彼とのやりとりや、AS関連の情報などからの影響を受け、「合わせようとすることが、失敗の原因なのでは?」と気づき始めました。
>
>そして、「合わせようとすると、余計に上手くいかない」のは何故かというと、「みんなのロジック・思考回路」と「私のロジック・思考回路」は違うものなのに、それを無視して合わせようとしていたからだと思ったわけです。更に、「ロジック・思考回路」は、各々の持つ文化によって裏付けられるものであって、文化が違えば「ロジック・思考回路」も変わってくると思うのですね。ですから私がみんなと上手くいかなかったのは、私の持つ文化が、多くの人と異なっていたからだといえるのでしょう。
>
>そう考えると、私が幼い頃から直面していた「みんなと合わないのはなぜか?」という問いは、世の中における「マイノリティとマジョリティが相容れないのは何故か?」だとか、「先進国は途上国に自分たちのレベルまで上がってくることを何故要求するのか?(そもそも『先進』『途上』という言い方自体ひっかかりますが)」といった疑問とも、繋がってくるわけなのです。
>
>では、異なる文化を持つもの同士が、理解し合い、お互いの存在を尊重するにはどうしたらよいのだろうか?
>と考えたわけです。
>そして、そのためにはどちらか一方だけが優位になる「ロジック・思考回路」に基づいた土俵で、意見をやりとりするのではなく、お互いの「ロジック・思考回路」をそれぞれ理解しようと努力するか、または、新たな「ロジック・思考回路」に基づいた土俵を作るということが必要なのだろう、という結論に至ったのです。
私はまだ自分自身のことで手いっぱいで、
広い意味での異文化コミュニケーション(社会問題や異文化圏間の紛争問題など)には考えが至っていませんが、
あつみさんがあげられた「異文化コミュニケーション」という言葉は、
まさに今私が直面している問題にしっくりくる気がしました。
私の(どうやら非常にマイノリティに属するらしい)「ロジック・思考回路」を
理解しようとしながらコミュニケートを取ってくれる理解者は得られた(と思う)のですが、
「まったくの異文化」を背景にした人と、おそらく初めてまともに接して
(これまでは「私がマジョリティのフリをする」か、「まったくの異文化の人とはハナから接触を持たない」でやってきたと思います)、
かなりのカルチャーショックを受けています。
ある言動について、
「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします・・・。
ふと思ったのですが、
「他者の『ロジック・思考回路』を理解しようという努力はしない」という「ロジック・思考回路」もあり得るのかな、と。
(例にあげた人がそうだというわけではありませんが。
あまりにも会話が噛みあわず、理解の手がかりになるような充分な情報量はほとんど得られませんでした)
あつみさんはパートナーの方との関係構築の問題をキーに発言されましたが、
友人関係でなく、「(法的な婚姻関係の有無は問わず)パートナーを持つ」とはどういうことなのだろう?と、
今私の中ではぐるぐるしています。
『アスペルガー的人生』にあった、「私は夫の顔のパーツが好きなのだ」というのは私にはとてもよくわかります。
「パーツ」というのは、視覚的なものにとどまらず、考え方や行動様式などにも当てはまると思います。
「この人はこういう考え方をするから信用できる」。
「この人はこんな言動はしないから好感が持てる」。
それは理解できるし、私自身も人との相性を評価するときにはそういう表現が一番しっくりくるのですが、
パートナー(恋愛関係)となると、「それ以上の、言葉で説明できない何か」が存在するらしいということを知りました。
自分の考え方や嗜好や行動様式・生活形態と、相手のそれとに、どんなに相容れない部分やズレがあっても、
それをどうにかして擦りあわせたり妥協しあったり、
そんなおそろしく鬱陶しく面倒な(ときにはとても嫌な)ことをしてでも、
「パートナーになりたい、パートナーでいたい」と思う「何か」があるらしいと知りました。
それは、いったいどのようなものなのでしょうか。
「パートナーを持たない」ことについて(私は自分の生活習慣や生活空間に他者が介入してくるのがとても嫌です)、
カウンセラーには「あなた自身がそれで淋しいとか悲しいとか感じないのならまったく問題はない」と言われました。
ごくたまにそんな風に思うこともありますが、
「自分の生活様式を他者に乱されたくない、ひとりで過ごしたい」という感覚がそれをはるかに上回ります。
その、「淋しい」とか「悲しい」とかいう部分が、
「人恋しい」とか、「ひとりでいたくない」とかの感情、
最終的には「恋愛感情(→パートナーを持つ)」ということにつながってくるのでしょうか。
だとしたら、やはり私は、自分には情緒的に欠落部分があるのだろうと思います。
あさかぜさんwrote:
> たまたま逆ですけれど、わたしは限界をむかえてしまいそうですので離婚を決意しました。今後の生き方について長期中期短期と計画を立てた上で、少しずつ実行に移していこうかと思っています。とりあえず中期計画(?)としては、娘の小学校卒業と同時に離婚にもっていけるようにするつもりです。けっこうこれがワクワクしてるんで、自分のありようはいったい何なのだろうって思ってしまいます。まぁ、わたしは娘の母親にはなりたいですけど、夫の母親がわりを期待されるのはもう御免だという気がしていますので……。
ちょっと、きつい言い方をさせていただきますよ。
お子さんの小学校卒業云々…言ってないで、別れてしまいましょうよ。
あさかぜさん、結局逃げているだけって気がします。ご主人もなんとなくかわいそうです。私はあさかぜさんのご主人のことを、実際は知らないからこんなこと言ってはいけないんだろうけれど、ご主人も追い込まれておられるのではなでしょうか?
ご主人のことを自覚の無いASだと、あさかぜさんも感じ取っておられるようですし、同じ土俵で喧嘩もできない夫との生活を先へ先へ延ばしても、お互い良い結果は生まれないでしょう。
ただ、あさかぜさんが離婚を先へ延ばされる理由が、僅かながらの未練(可能性)みたいな感情を秘めておられたのなら、ホントに余計なレスをつけてしまいました。すみません。
タレイヌさん wrote:
> 離婚に、同意が、必要ですか?
法的な「離婚」(協議離婚)には、原則的に「同意」が必要です。が……まあ、ただ“別れる”だけなら法律もへったくれもない、ということでしょう。
(法律上の)離婚に関する考え方としては、大きくわけて「有責主義」と「破綻主義」という二つの考え方があります。
「有責主義」は、日本などの考え方で、「夫婦は共同して夫婦関係を維持する責任が(社会や子供に対して)ある」というものです。で、一方がその責任を果たさない、あるいはその義務に反している場合を除いては、双方の同意がなければ離婚は認められません。通常は慰謝料や親権に関する取り決めを含めて同意がなされるので、離婚の手続きはその後になります。
「破綻主義」は、主にアメリカの考え方で、「とにかく夫婦生活が破綻しちゃってるんだから、結婚してたって意味がない」となれば離婚が認められます。アメリカでは、離婚しちゃってから「夫婦生活を破綻させた過失はどっちにどれだけあるか」みたいな裁判が慰謝料や親権にからんで起きるのはこういう事情によります。
世界的にみて一般的なのは有責主義ですが、協議離婚は認める国と認めない国があり、「一方がその責任を果たさない、あるいはその義務に反している場合」はおおむね離婚が認められます。
破綻主義は悪いことばっかりみたいですが、子供が産めないとわかった妻が夫に気兼ねして離婚を言い出す、みたいな例もあるので、実情ではなく心情優先の考え方ともいえます。
(Maria)
ペンペンさん wrote:
>あさかぜ さんwrote:
>> たまたま逆ですけれど、わたしは限界をむかえてしまいそうですので離婚を決意しました。
>
>離婚はとても難しいです。妻の側が結婚生活をつらいと感じていても、夫の側にそれを理解する能力がなければ、同意を得ることが困難です。
離婚に、同意が、必要ですか?
突然すみません。法律上、あるいは色々な手続き上、さらには、養育費、補助金、公的な援助等を、考え始めれば、確かに、「離婚届」は大切です。でもね、つまるところ理解しない人だから、離婚しよう!としているのであって、離婚する事を、理解するような人だったら(こういうことってあるか?)はなから、揉めないかもしれなかったし・・・。変な言い方かもしれない・・・。まずは,別居からね。
本気であれば、可能と思いますよ。あさかぜさんのほうに,精神的に,本気で支える人が身近にいると,結構いけると思うけどな。タレイヌの周りでも、けっこう、いけてます、はい。
お子さんが,女の子だと、「父親モデル」の必要性は,いまいま,切羽詰って必要ということにはならないでしょうから,ラッキーかもしれませんね。(いずれは,必要となるかも。でも,おじいちゃんとか,おじさんとかで,結構大丈夫と思います。)
(あっさり書いちゃう、タレイヌでした)
あさかぜ wrote:
> たまたま逆ですけれど、わたしは限界をむかえてしまいそうですので離婚を決意しました。
離婚はとても難しいです。妻の側が結婚生活をつらいと感じていても、夫の側にそれを理解する能力がなければ、同意を得ることが困難です。また、妻を母親扱いする夫ならさらに、離婚は難しいでしょう。妻が決して本当には自分を捨てることのない母親と勘違いしているからです。自分が嫌われているということを、本当に理解させることも困難だと思います。そういう夫は、謝ればやり直せると思うようです。どこまでも妻に甘える態度は、ストーカーに似ていると思います。そういう夫を持った場合、どうしてもと思うなら、駆け込み寺のようなところを頼るしかないと思うことがあります。
私が住んでいる千葉県では、学校から帰るとき(5時頃)は、
雨がジャンジャン降っていましたが、今は外も静かです。
最近、自分らしく生きたいなあ、と思います。
「自分らしく」って言葉の意味、良く分からなかったけど、
今は、本当に、自分らしく生きていないことが分かります。
私は人よりできないことがいろいろあって、判断力もあまりないし
不器用だし、そんなに自分のこと好きじゃないけど
それでも、やっぱり、自分らしく生きたいなあ、って思います。
それって、結構、つらくて大変なことだけど
もっと、わりきって、いろんなわだかまりを捨て去って
バカにされても笑われても自分らしく生きることを大事にしたい。
でも、それが、なかなかできない私です。
バカにされたくない、笑われたくない、人の目が気になる…。
だめだなあ、私って。
ここの掲示板を読んでいると、みなさん、
自分をしっかり持っておられるように思います。
そんなみなさんは、素晴らしいと思います。
あさかぜさんwrote:
> たまたま逆ですけれど、わたしは限界をむかえてしまいそうですので離婚を決意しました。今後の生き方について長期中期短期と計画を立てた上で、少しずつ実行に移していこうかと思っています。とりあえず中期計画(?)としては、娘の小学校卒業と同時に離婚にもっていけるようにするつもりです。けっこうこれがワクワクしてるんで、自分のありようはいったい何なのだろうって思ってしまいます。まぁ、わたしは娘の母親にはなりたいですけど、夫の母親がわりを期待されるのはもう御免だという気がしていますので……。
そうだったのですか。私は離婚はおろか結婚の経験もありませんので、何とも、想像もつかないことなのですが、友人にはここ数年の間に、離婚をした人が2名ほどいます。いずれも離婚にはすごくエネルギーが必要だといった主旨のことを言っていますが、現在はとてもたくましく、何か振っ切った風情を漂わせています。
あさかぜさんと、私の今の状況は、表面的な方向性こそ逆ですが、シンクロする部分があるように思えていろいろ考えさせられました。
「他人と一緒に生きていく」という現実の問題に取り組んでいるうちに「自分の今後の生き方をどうするか」ということに繋がった、というか。
あさかぜさんは、すでに計画まで立てられたようで、数年先までは見えてきておられるようですね。私は、なんとなくテーマのようなものは、見えてきましたが、では今からそのために具体的に何をすればいいのかは、まだはっきりと分かっていません。
なんとなく見えてきたテーマというのは、「異文化コミュニケーション」(こんな言い方が合っているのかわかりませんが)の達成、のようなことです。幼い頃から、みんなとうまく波長を合わせようと努力してきましたが、上手くいかず、最近になって、同居中の彼とのやりとりや、AS関連の情報などからの影響を受け、「合わせようとすることが、失敗の原因なのでは?」と気づき始めました。
そして、「合わせようとすると、余計に上手くいかない」のは何故かというと、「みんなのロジック・思考回路」と「私のロジック・思考回路」は違うものなのに、それを無視して合わせようとしていたからだと思ったわけです。更に、「ロジック・思考回路」は、各々の持つ文化によって裏付けられるものであって、文化が違えば「ロジック・思考回路」も変わってくると思うのですね。ですから私がみんなと上手くいかなかったのは、私の持つ文化が、多くの人と異なっていたからだといえるのでしょう。
そう考えると、私が幼い頃から直面していた「みんなと合わないのはなぜか?」という問いは、世の中における「マイノリティとマジョリティが相容れないのは何故か?」だとか、「先進国は途上国に自分たちのレベルまで上がってくることを何故要求するのか?(そもそも『先進』『途上』という言い方自体ひっかかりますが)」といった疑問とも、繋がってくるわけなのです。
では、異なる文化を持つもの同士が、理解し合い、お互いの存在を尊重するにはどうしたらよいのだろうか?
と考えたわけです。
そして、そのためにはどちらか一方だけが優位になる「ロジック・思考回路」に基づいた土俵で、意見をやりとりするのではなく、お互いの「ロジック・思考回路」をそれぞれ理解しようと努力するか、または、新たな「ロジック・思考回路」に基づいた土俵を作るということが必要なのだろう、という結論に至ったのです。
ここまで気がついたところで、「ではそれを実現するためには、何をすればいいのか」がまだはっきりとは分からないので、だから何なのだ、というところなのですが・・・
あんくさんwrote:
> 123さんの意見と、それに反論した方々の意見であれば、世の中が支持するのは、残念ながら123さんの方なのだろう、という感想は私も持ちました。それでも、123さんのことだけでなく、このところ激論が続いている中、「みんなだんだんケンカが上手くなって来ているのかなあ」とも思えます(いやchip氏←あつみさんはご存じない人物かも知れないが―の頃からすると、随分みんな言うようになったと思う)。ケンカ術っちゅーのは、勝つためにはとにもかくにも、辛辣、どぎつい言葉にもへこたれない「精神力」だから。
ここの掲示板を拝見するようになって、そうした「精神力」をひしひしと感じさせる書き込みに、度々出会い、私も「本当に思っていることを、言葉を尽くして言ってみよう」と勇気づけられました。
>でも、現実世界での口論となると、とても今回のようにはいかないのでは、というのも本音。ネットというのは、「世間」ではないのだし。
そうなのですよね。実際の会話となると、相手の話を聞きながら理解し、それに次々と答え、同時に自分の考えを纏めて言いたいことは言う、という、アクロバティックな技術が要求されますからね。とても難しいと思います。やはり、会話のスピードが速い人とか、押しの強い人、多数派の意見を持つ人の方が優勢になってしまう。
しかし私は、ネットでのコミュニケーションというものに今までになかった可能性を感じます。
例えば、
> 123さんの場合、あつみさん、貴女という人の発言に対して物申したというより、八つ当たりに利用されてしまった感があるのではないかと。蝙蝠(観察型)さんの言う「病んでいる」というより、「介護疲れ」っぽくて、幾分投げやりなレスという印象を、私は受けました。
ということが分かったのもネットならでは。
現実の会話では、相手が怒って立ち去ってしまう(またはこちらが耐えきれなくなって立ち去ってしまう)ことが往々にしてあり、またその現場を見ている人もいなかったりすると、相手が怒った理由も、こちらの言いたかったことが伝わらなかった理由も分からないまま、終わってしまうことがよくあります。
今回も、もしあんくさんや、他の方々のご意見がなければ、「私はまた何か悪いことをしたのだな」と理由も分からず思いこんでいたでしょう。そして自分一人で考えて、誤った結論に至っていたと思います。
> 「捨て台詞」だと、意見交換にもならないんですけどね(-_-!)。「健常の第三者」と、「当事者」が、川のこっち側とあっち側のまま交わることもなければ、普段の生活で、Asやその他の発達障害について、トラブルや葛藤をも忌避することなく語り合える場、というのが、この国の土壌には見当たらないよなあ。
そういう「場」を見つけたい!というのが、「異文化コミュニケーション」を達成したい、ということなのです。いや見つけるのではなく作らないといけないのでしょうかね。双方にとって、自分の価値観を揺るがされるような辛い場になるかも知れないと思いますが、もしこれが実現できれば、(ちょっと論理が飛躍しますが)戦争や民族紛争の予防などにも、役に立つのではないでしょうか。
今回の投稿、あさかぜさん、あんくさんへのレスではあるのですが、もはや123さんについての話題とは離れていると思いましたので、新たに投稿させていただきました。
発達障害相互支援ネットワークのホームページ、『雑魚亭』のURLが変わりました。
旧:http://users.hoops.ne.jp/joshya/
↓
新:http://joshya.hp.infoseek.co.jp
です。
とはいえ半年間は旧URLでもアクセスできるということだったので、切換えを確認してから関係各所に通知する予定だったですが……掲示板がどっか行っちゃいました。どこかで見かけたら、御一報ください(http://joshya.bbs.infoseek.co.jpにもhttp://joshya.hp.infoseek.co.jp/bbsにもいなかった。くすん)。
ただし、CGI が使えるようになるというので、自前で BBS のホストプログラムを書くことになるかもしれません。はてさて、どうなることやら。
(Maria)
あんくさんと、ジュンヤ君の話、
本当にいい話ですね。何回も読み返してしまいます。
はまり込むものが、そこしかないところに「カチリ」、
とはまり込む一瞬の奇跡・・・
今夜、関東は台風21号の通過で大荒れの天気になりそうです。
最近左と右に関する話題が出たので、台風にまつわるその話を一つ。
台風の進行方向に対して、右側の半分の部分は『危険半円』、左側の半分の部分は『可航半円』と呼ばれています。
どうしてそういう名があるかといえば、進行方向の右側では、台風の持っている独自の風の風速に進行速度が加算される(ベクトルの足し算)ために、風が非常に強くて、船を動かすのが危険になるためです。逆に左側では、風速から進行速度が引かれるので、風が穏やかで少し危険が減ります。このことは古くから船乗りの人に知られていました。
21号の場合は、関東でも東の千葉や茨城は、この原理の影響でかなり強い風が吹きそうです。くれぐれも気をつけてください!!
ASぱぱ wrote:
>はじめまして。三歳の男と子のパパです。
>2ヶ月前に、我が子はASと診断されました。幼稚園での彼の行動は、全く協調性がなく回りに迷惑をかけてばかり。園の先生のご理解があり、何とかこの半年やってこれました。しかし、秋の運動会練習に参加してみて思ったのですが、周囲に全く関心のない彼を一生懸命子供の輪の中に導こうとしている先生のご苦労を見ているとこのままで良いのか悩んでしまいました。また我が子のためにも、養護学校のような施設に入れた方がよいのか。それとも今の幼稚園で先生に協力していただき、このまま行かせるべきか。我が子のためには、どうしたら良いか悩んでおります。皆さんはどのようにASの子を育てられたか、教えて下さい。よろしくお願いいします。
私も独身で育児の経験は無いのですが、ASとして30年間生きてきた彼の先輩として、ちょっと意見を述べさせていただきます。
『協調性が無く』とありますがこれはどんなことでしょうか?相手にちょっかいを出して混乱させるということですか?それとも寡黙に自分の興味のあることに没頭して、それを崩すとパニックになってしまうということでしょうか?
もしこれらに彼が当てはまるとしても、それは3ないし4歳という幼い子にはごくありふれたことだと私は思います。これくらいの子は誰でも、そうやって周りの大人や子供と信頼関係を築いていくものなのだと思います。彼は今それで、悪戦苦闘しているのでしょう。
とにかく、長い目でみてやってください。あら捜しをしないで、少しでもいいところがあったら誉めてください。あまり疑心暗鬼になって、スパルタ的に物事を教えたりすることは、強いトラウマを残し、成人してから引きこもり等の社会不適応に発展してしまう恐れがあるので、厳に慎んでください。
それから今後の就学の件ですが、診断を受けた病院のケースワーカさんやお住まいになっておられる地域の障害児の親御さん・管轄の児童相談所等から幅広く情報を集めて、養護学校・普通学校へ実際に足を運んでみて、どこにするか判断したほうが良いと思います。ここ数年毎年、学力検査による教育委員会の普通*養護判定がらみの親子心中事件が報道されています。親だけの問題の抱え込みを避け、積極的に相談の機会を持ちましょう。またお子さんの意向も大切にするために、学校見学の際は、一緒に連れて行ってあげてください。
お久しぶりです、ひまわりさん(^^)。いかがお過ごしでしたでしょうか?
ひまわりさん wrote:
>日程的に行けなかったのですが、
>「自閉症カンファレンスNIPPON」2日目、アスペ当事者ご夫婦が発表されたようですが、
>結構しんどかったのではと思います。
話を聴いていた側からしても、人前で発表するのが大変そうに見えました(面白おかしく話したり、等一生懸命にやっていただけに、余計ハードそうでしたね。ちょっと心配です)。
>カナータイプ主体の方々に、お話する、コツみたいのは、感じられましたでしょうか?
うーん…。これについては、難しいですね〜。
わたし自身は、カナータイプの方とお会いすることがなかったせいか、ついにないまま終わってしまいました…。残念。
もしかしてこの文章、ひまわりさんの文意と外れているかも…(だとしたら、お許しのほど)。
I wrote:
>> そんな中で思ったのが、「いずれはカナー・アスペルガー両タイプの割合を半々にして、もしくはアスペルガータイプ主体のイベントも開催してほしいな」…ということ。
>
>> カナータイプ主体の大規模なイベントがやっと始まったばかりではありますが、アスペルガータイプもいずれは同じように…と、ふと頭をよぎった時でもありました。
ひまわりさん wrote:
>近いうちにそうなって欲しいです〜。
欲を言えば、来年か再来年あたりに開催してほしいと思うのは、わたしの我儘でしょうかね…?では。
蝙蝠(観察型)さん wrote:
> SMのことをほとんど理解できていないんだな。放置プレイというのは普通、放置する役の人が放置される役の人の欲求を満たさないように行動することに意味があるんだぞ、と。
あんくさん wrote:
> つまりはこ奴は、「自分は放置してほしい荒らしの変態です」と、わざわざここでまでカミングアウトしに来ているようなものなのだ。
それはどうかなー。違うと思うなー。うにゃうにゃ。(←意味不明)
あめさん wrote:
> う〜ん。SMのことはよくわからないけど(笑)
実際のところ、「SM」というのは、ないのです。あれは、「M&M」(どっかの粒チョコみたい)なのですよ。
マゾヒストというのは、だいたい高学歴・高収入で、社会的地位が高く、内省的で、厳格な倫理観の持ち主で、自制的なひとに多かったりします。こういうひとを「ええ恰好しい」と馬鹿にする人も多いようですが、東京人であるあたしはこういう「痩せ我慢」の人が好きです。
で、こういう人には、「インポスター現象」といって、「私は世間をたばかっているのだ。私はそんなにご立派な、ご大層な人間ではないのだ。誰か私を軽蔑してくれううううううううう」みたいな人が多い。で、配偶者や恋人やごく親しい友人や家族に対しては甘ったれでだらしない人がいたりします。
ところが、そうした「本来なら気を許せるはずの人」に対しても甘えることができなかったり、(配偶者や恋人や友人を含めて)近寄ってくる人が「人格者」「頼れる人」のイメージを求めていたり、周囲の人が「甘え」「だらしなさ」を毛嫌いしている人だったりすると、「厳格で清潔な自分のイメージ」に閉じ込められて、「羽目を外したい」という欲求に苦しめられてしまうのですよ。
でまあ、趣味に没頭して子供のようにはしゃいでみたりする人もいるのだけれど、子供のころのしつけの影響で、それすらも心から楽しめず、罪悪感に苛まれてしまうひとがいます。で、そういう人をセルフ・イメージという牢獄から解放してあげるのが、いわゆる「SMプレイ」なわけです。
SMクラブというのは、風俗の中ではもっとも値段が高かったりします。それは客層が高収入の人を対象にしているというだけでなく、そういう人に共感できる「高学歴で、内省的で、厳格な倫理観の持ち主」で、しかも美貌とか知性とか演技力とかを身につけた人でないと客のお相手が勤まらないからという理由によります。で、そういう人がSMクラブで働くというのは、お金よりもそこで働くことに社会的意義を見出している場合も多かったりします。だから、SM嬢は真面目なひとが多いぞ。
ところが、こうした「本来はMであるS」のひとは、Sの役割を演じることがストレスになってくるんですよ。ですから、SとMの関係は(ストレス解消のために)しばしば逆転します。つまり、「SMのS」は、本来はMな、「代償的S」(自分が望んでいることを相手にすることで、代償的な満足を得る)なわけです。
そんなわけで、どこぞの馬鹿のような「Mを演じるS」は、「自分のサディズムを充足するために、『虐待されることを望んでいる、自分のサディズムを正当化できる対象としての(現実には存在しない)M』」を演じているだけだったりします。だから「荒し」に本物のMはいません。
本物のMは、「知性を感じる可愛いボケキャラ」を演じます。「まったくしょうがないんだから(^_^;)」みたいなネットの愛嬌者が、実像ではお固い真面目なちゃんとしたヒトだったりするわけです。
ただ、「男運の悪い女」タイプの疑似M、というのもいます。子供の時に親から虐待を受けて、それがトラウマになっていて、親の虐待を自分に対する愛情のあらわれだと信じたくて、似たような男を選んでしまって食い物にされるタイプがこれです。
こういう女性が運良く才能のあるM男とくっつくと、良妻賢母タイプにまとまっちゃったりします。「ばかもーん! 茶がぬるーいっ!」「ああっ、ごめんなさい」とかいって、「横暴な夫と虐げられた妻」みたいな役割を嬉々として演じていたりするわけだな。こういうのって幸せなんだろし、一時代前の理想的な夫婦間系に近いものがあるけど、なんだかなぁ、と思います。あたし自身はこういうの好きだけど、女性が男性を「立てる」ことが少なくなり、「男らしさ」が美徳でなくなり、「厳しい男性」が嫌われて「優しい人」が理想になり、体罰が否定されている今の世の中では、こうした夫婦ってカリカチュア(戯画)にしかなりません。
これって、男と女にとって不幸なことかもしれない、と思ったりします。
(Maria)
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami