アスペルガーの館の掲示板(旧)
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新しいアスペルガーの館の掲示板
職を失い製品の権利も奪われてしまい、せっかく出した本の印税も入ってこなければ心臓を壊して体力もなく仕事もできず、そのうえ婚約者も失踪してしまったというめちゃくちゃな状態のとき、ひっそりと部屋に隠って鬱々としていた時期があります。こういうのを「引きこもり」とは言わない(だって心臓ヘタッちゃってるからほとんど出歩けないんだもん)だろうし、「鬱病」とも言わない(だって鬱になって当然の理由があったんだもん)でしょうが、とにかく状況的にはあんまり変わりませんでした。
で、そういう鬱な気分のときにさらに私を鬱な気分にさせてくれるのが、いわゆる「宗教の押売り」です。つまり「聖書についてお知らせしたくて、各家庭を訪問させていただいております」とかいうアレ。しかも子供連れてくるんだよな。あれは反則だ。
彼ら(普通はおばさんだが若い男のこともある)の言い分は、「あなたが不幸なのは、あなたの罪に問題があるのです」というのと、「信仰を持てば、天の国に迎えられる」というのと、「我々はあなたをお救いしたいのです」というののおおむね三点なわけです。
世の中には小児白血病の子供なんていうのがいて、彼らがどんな罪を犯したというのか私には理解できんかったわけです。私だって悪いことをしたわけでもないし、状況から判断してしかるべき処置をとったにもかかわらず結果的に不幸になっただけであって、私が悪いわけじゃない。こういう、被害者に向かって「あんたに問題があったんじゃない?」と言っちゃう心理状態を、「被害者非難心性」といます。確かに何も悪いことをしていないのに不幸が襲いかかってくるというのは理不尽だよなぁ。だけど、障碍を持った子供が生まれたからって、「あたしが妊娠期間中に煙草を吸ったのがいけなかったんだわ」と自分を責めたりとか「あなたに問題があったんじゃない?」と夫を責めたりとかするのは見当違いという気がします。交通ルールを遵守して走ってても酒酔い居眠り運転の大形トラックが突っ込んできて死んじゃう、みたいなどうしようもない災難だってあるわけだし、それと同じようなもんなんだよね。
それに「天の国に迎えられる」とか言われたって、死んでからどうこうより私は現世利益を追求したいし、私を救いたいんだったら「金をよこせ」とは言わんから仕事をくれと言っても聞く耳を持ちません。で、いくら追い払ってもしつこくやって来るのですね。「罪深いあなたをお救いしたいのです」と。で、こちらが強く拒絶すればするほど、連中はこの「哀れな罪深き者」を救おうと必死になるわけです。
……困るよなぁ、こういうの。
しょうがないので私は「相手の信仰を突き崩す」という本質的な手段で対抗することにしました。で、まず『エホバの証人』についての資料を読み、次に聖書の中のイエスについて直接述べてある部分、すなわち四つの『福音書』を徹底的に読みこなすことにしました。
そうすると、面白いことが分かっちゃったんですね。ジョン・レノンの『イマジン』は、ゴスペルだったんです。彼は自分と同じ名前を持つ聖人、聖ジョンことバプテスマのヨハネの言葉を歌にしたわけです。
「思いなさい。『天国なんか、ない』と。」
この一言は、じつは
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
の言い換えだったんです。
福音書は、もともとギリシャ語で書かれています。で、この「悔い改め」というのは「回心」とも訳す言葉なんですが、「そのように発想を変える」「ゲシュタルト・チェンジする」というのが本来の意味で、「反省する」なんていう意味はなかったんですね。
で、「近づいた」というのも、「いま近づきつつあるんだけど、まだ来ていない」のか、「近づいた結果、もう来ている」のか、じつは判断できないんです。
つまり、天の国はもう来ていて、いま我々がいるこの世界が天の国なんだよ、だから、どこかにある理想の「天の国」を待ち望んでもムダなんだよ、だから、我々が天の国で行なわれるように行なえば、この世界はすなわち天の国なんだよ、とジョンは言っているわけです。
で、イエスは我々のこの世界が「天の国」であることを説明するのに、自然がどれだけ神秘と驚異に満ちているか、というのを語るんですが……このスケベオヤジは「女性が妊娠して子供を産む」とかいった、Hネタを譬えに使うわけなんですよ。ところが宗教関係の皆様というのは、なんやら訳のわからん理屈をひねくって、なんだかやたら高邁な思想をイエスが語っているみたいに解釈しちゃって、またそれをもったいぶって信者に押しつけておるわけです。
昔の人というのは、説明が難しかったもんだから教えられても分かんなかったんだと。だから、私は譬え話を使って、誰でも分かるように説明するんだと。イエスはそう言っとるというのに、弟子どもときたらどいつもこいつも……ちゃんと分かっているのはイエスと同じ聖ジョンの弟子である、ジョン、アンドリュー、フィリップ、ナサニエルの四人くらいなんですね。で、「イエスとベタニア四人組」の珍道中(これを「イエスの公生活」といいます)の記録が、いわゆる『福音書』だっちゅーのが分かっちゃったわけです。で、このおじさんは異邦人の女に声をかけるついでにエッチな冗談を言ったら相手もその気になっちゃってその場で妻にしちゃったり、不倫(もっとも子供を育てるために娼婦をしていた未亡人と寝たとか、そういう話らしいけど)を告白してみたりとか、癩病患者の村で知り合った女の子とねんごろになっちゃったりとか(「復活」の場面で、イエス先生にしがみついて離れないもんだから、「ノリ・メ・タンゲレ(私を離しなさい)」とか言われているベタニアのマリアちゃんがその女性です)しているわけです。
で、このベタニアのマリアちゃんの弟のラザロ君もなかなかお馬鹿で、死後三日目に復活する、という奇跡を演じようとして墓穴に埋葬されたのはいいのだけれど、その連絡がイエス先生に届くのが遅れ、一人だけ事情を知らされていたマリアちゃんが先生に事情を説明して「ええい、ばかものが」とか叱られていたり(そういうセリフはありませんが、「イエスは大いに怒って」と書いてあります。これを後の聖書学者は「嘆いて」と勝手に変えてしまいました)とか、あげくに「ラザロ、出てこい」とか言われたのはいいのだけれど屍衣でぐるぐる巻きのみのむし状態で、芋虫のように這って出てきたものだから、「誰か解いて連れてってやれ」とか見捨てられたようなことを言われております。ひどいのはラザロの姉のマルタさんで、事情を知らされてなかったもんだから、イエス先生が墓を開けようとすると、「もう四日めです。臭いますよ」とか言ってたりします。
そして私はやってくる偽預言者どもを(すでに本人はどっぷり福音書にハマッていたりする)端から論破していったのですね。
で……思ったんですけど、イエス先生というのは本当に私によく似ている。まあ、時代的いうと私がイエス・キリストに似てるってことになっちゃうからこういう言い方になるんだけど、なんかイエス先生の悩みっていうのがやたら切々と胸に響いてくるんですね。で、今現在つらつら考えるに、イエス先生というのははっきり言ってAS傾向の持ち主です。
いっぺん福音書を読んでみてください。面白いから(でなかったら『ふたりで聖書を』でもいいけど)。
読んで解んないところがあったらメールで質問してね KILROY
精神病院について書いておこうと思います。
精神病院(正確には、精神科病棟)というのは、なんだかとても恐ろしいところのように考えている人が多いと思います。それには確かに理由もあって、かつての精神病院というのは、重度の精神分裂病の患者を強制入院させるところだったからです。現在でも一部の病院についてはこうした部分が存在します。いわゆる「シャブ惚け」の患者が放りこまれるのはこういう場所です。
自分から入るタイプの精神病院は、このところ解放病棟のところが増えてきたので、こういった恐ろしげな場所ではなくなっています。
雰囲気からいうと、地方にあるのはサナトリウムか企業の研修所のような感じの場所です。森田療法を採用しているところが多く、菜園なんかがあって作業療法をしている患者さんがいます。ただし、森田療法には絶対仰臥療法というのがあって、入って一週間はとにかくベッドに横になっているだけ、ということをします。これが意外にしんどいかも。
都会の病院の場合は一階に内科などの普通の病院と精神神経科の診療室、二階が精神科病棟があり、いちばん奥の非常口の階段から入るとなぁーんにも書いてない鉄扉があってインタフォンがあって、それで呼ぶと中から看護婦さんが開けてくれるシステムになっていました。
「病棟」というだけに寝巻の上にガウンをはおっただけの女性がふらふら歩いてたりもします(なぜか美人が多い)が、旅館の受付のあるべきところにナース・ステーションがある、みたいなフシギな空間です。病室は個室の場合和室が多いようです。ただし入口にドアはなくカーテン。四畳半くらいで押入れがありません。毎朝布団をたたんで机に向かう人もいれば、鬱状態がひどくて寝っぱなしのひともいます。
二人部屋だと学生寮みたいなベッドの部屋もあり、女性が利用することが多いようです。
意外なことに、摂食障害の女性はあんまりいません。そういう人は内科病棟に入院しています。ただし、「摂食障害」という症状を持った、あるいは経験した女性はけっこういます。『ふたりで聖書を』に登場するマリアちゃんの摂食障害体験は、入院していた後輩の見舞いに行ったときに知り合った女性からうかがった話を元に書きました。後輩は私ばっかりがもてると怒っていましたが、AS傾向の人間は「苦痛」については共感できるものの、「苦悩」については理性を駆使してどうにかこうにか共感する、程度のことができません。ですから、普通の人だったら同情のあまり泣き出してしまうような話も、「うわぁ……」「ひぇぇ……」と悶えながらもそこでひとまず終わってしまい、わりと熱心に聞いてしまえます(だから友人が発作を起こした場合でも、「大丈夫ですか?」みたいな言葉より先に「自分に何ができるか」が先に頭に浮かびます。で、事態を分析し、自分にもうなすべきことがない、と思ってから励ましの言葉をかける、という順序になってしまいます)。ですから相手の女性も、「人に自分のことをこんなに話したの始めてだった。すっきりした」と言っておられました。なお、過食するときはパンの耳と牛乳がいいそうです。牛乳の中の蛋白質と胃酸が反応するので、胃液で喉が焼けたり歯が溶けたりしにくいとか。
住み心地については、「論文を書くにはいいところだ」そうです。「日本から来た黒船」と呼ばれてアメリカのコンピュータ業界を震撼させた第五世代コンピュータ・プロジェクトの若手研究者(発足当時、メンバーは三十五歳以下という制限がありました)の一人は、博士論文を精神病院で書き、ついでに奥さんまで見つけて(同じ時期に入院していた患者さんだそうです)出てきたと言っていました。
常識的には禁酒ですが、ごくまれに認めているところもあります。なぜかというと、タバコを吸う人に禁煙を強制すると隠れタバコをして火事の原因になるように、外出時に深酒をして状態を悪くすることがあるからです。そこで決まった量の晩酌などで、適性な飲酒習慣を身につける訓練の一環として、飲酒を認めてもいいのではないか、ということなわけです。もっともそういうお医者さんは、本当に僅かだそうですが。
鬱状態がひどくてセルフケアができない、という人には、わりとお勧めの場所です。
自分の身の回りのことができて、しかも薬などで状態がコントロールできていて、そこそこお金がある、という場合は、どこかシーズン・オフの温泉地に安アパートを借り、自炊をしながら一ヶ月くらいなぁーんにも考えないでお風呂通いをするのはいいかもしれません。いわゆる「湯治場」です。若い女のひとだと、慢性病の治療のために同じように温泉療治に来ているお年寄りに可愛がってもらえるそうです。ごはんだけでも一緒に食べると料理と後片付けの手間が半分になるし、生活が規則的になるというメリットがあります。買い物や運転などの仕事を引き受けるのもいいでしょう。誰かの役に立つというのは、いいものです。
卒業生が二人になって、ますます虚脱状態の KILROY
ゆーり wrote:
>きょうはようちえんで卒園式でした。
>わたしは、壇上で園長先生に証書をわたす役をしました。
今年の卒業式で送辞を読む役でした。
役を割り振った担任曰く「クラスで一番早く学校に来たから」ということ。
まあ、会長だから心の準備はできてましたけど・・
決め方が前々から分かっていれば、わざと遅刻していくところでした(^_^;
>とちゅうで、子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>「ありがとうさようなら〜ともだち〜♪」の歌のころには
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
卒業生担任の先生方や保護者の方々は・・泣いてましたね。
ホントに涙で言葉すら出てこない・・という感じでした。
それに比べて、生徒の方はあまり涙はありませんでした。
ただ、冷めてるって感じもなくて・・
涙はなくても、別れを惜しむ気持ちはいっぱいだったと思っています。
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
そんな時は、その雰囲気自体をを変えてしまえばいいんです。(^_^;
かくいう自分も、「ちょっと今年は変わった送辞にしてみようかな」感覚で、
「笑顔で卒業生を送り出す」というテーマのもとに話してみました。
「これが本当の別れじゃない。いつでも会えるんだ・・だから、今は笑って送り出そう」との思いを託して。
もしかすると、生徒の涙が少なかった理由は、この送辞にあったのかもしれませんね。
そう考えれば、この作戦は成功だった・・ということになるんでしょうか(^_~;
私も、15日息子の卒業式に行って来ました。感動するべき所なのに、やはりその場の雰囲気で・・・というよりも、保護者同士の雑談に、「話するなら外でしたら?」とか、校長他スピーチにも、「本当にそんな事思ってたん?」と言う疑問ばかりが沸いてきて感動する暇もなくて・・・(笑)
おまけに、「情緒障害児や難聴学級の皆さんとの交流により、様々な事を皆さんは体験されました」なんて事言い出したもんだから、「なんやって〜!!」と心乱れてしまって・・・・健常児主体の卒業式かい!と不愉快に思ってしまって・・・
どうも”普通”社会の人は無神経で困るなぁ〜と一人怒り狂っていました。
おまけに、昼から会社に行けば、みんな口を揃えたかの様に「感動した?」ってくるから、もう「はぁ〜??」って感じなのを抑えるのに苦労しました。
歌とか感情移入しやすい傾向のある私も、さすがに今回は最低の卒業式やとつくづく思いました。
どうも、心乱れて、言葉も乱れて失礼しました。
私は小学生の頃、どういう訳か女の校長先生に、今思えば教育委員会に訴えてやろうかいと思うほど攻撃(他の人には一目置かれて愛されていると見えたかもしれないが・・・)されました。
朝登校すると、必ず校門のところで落ち葉なんか掃きながら子供たちを出迎えてる。
会うのがいやでわざと遅刻すると、私が来るまで待ってる。私より後に来た人には興味がないようでした。
直接ではなく、人を介して私のことを調べたり、全くの赤の他人に親にも言わない私の話をしたり、公私混同甚だしく、立場で接しようとする私が気になるようで、担任に”正直言って校長のああいう態度はほんとに困る。”とまで言われていました。
いろいろあって思い出すのもいや・・・
卒業式で、私が代表でお礼の言葉を言う時、校長を前にして”雨の日も風の日も、門の前で出迎えて下さった校長先生・・・ありがとうございました”と言ったとたん、思わず悔しくて涙が出てきました。(この言葉、あんたにだけは言いたくなかったヨ)
後からみんなに、あそこのところで感極まって泣いてたね。みんなもらい泣きしてたよ。卒業式が盛り上がって良かった良かった。って言われて、はあ?と思ったけど、そのままにしておきました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
涙にも、いろいろあります。
なんで、みんな泣くんでしょうね。なんか、卒業式って泣くことになっているから、つられて泣いてしまうのかなあ。
よしもとのギャグみたいな、「お約束」。
私の卒業のときはひたすら幸福感でいっぱいで、ずっと笑ってましたよ。
もっとも私には別れを惜しむトモダチもいなかったから、寂しいって感覚がわからなかったのかもしれません。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
うーん、でもこういうのって日本独特のことみたいですよ。
笑っておめでとう!ってのもアリだと思います。
ゆーり wrote:
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
こういうのってありますね。
わたしの場合、卒業式などのセレモニーでどうだったかは
あまり覚えてないのですが(ただ歌で高揚することが多いので、
「螢の光」とか歌いながら泣いたかも)、
コンサートに行ったときに、みんながひとつの方向を向いて盛り上がってて、
それはわたしにとっては「つながり」めいたものが感じられる
楽しい時間でもあるのだけど、そこで突然、素に戻って
「ちょっとこの状況は不気味かも」と思ってしまったりもします。
そう思ったからと言って楽しさが減じるわけではないのですが。
ただ、コンサートなどの盛り上がりを表現するのによく使われる
「一体感」という感覚はわたしにはよくわかりません。
ひとの話をきくと、楽しかったコンサートの場合
「我を忘れて」夢中になっていたなどというのですが、
どうすれば「我」を忘れられるのかわたしにはわからんぞ。
常に、ステージと共に会場の「盛り上がり具合」も観察して
みんなが楽しそうにしてればわたしも楽しいというのが、わたしの楽しみ方です。
で、帰宅したらステージのことより、自分の近くにいた人が
こういうことをしてた、なんてことのほうをよく覚えている。
>
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
>
>お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
>すごく悲しいのですが。。。
>ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
お互いに別れを惜しんで泣いて笑ってみたくても、
そういうことをする相手がいなかった、わたし・・・(^^;)
ひとが盛り上がってると観察する側にまわってしまうのよね・・・
さっきたくさん書き込みしたのに誤って消してしまって。もう一度書く気力がなくなってしまいました。
皆さんわたしのつまんない悩みに数々の答えを書き込んでくださって、ありがとうございました。やっぱ私はASである皆さんの個性が大好きですし、うちの夫もどきのこともぐちゃぐちゃいいながら、やっぱりその並外れた個性を愛してたと思います。
でも、もう終わりです。
来週出て行きます。彼は知りません。云ったところでわかってはくれないし、予定のひとつである私がいなくなれば、彼はどんなに怒り、監禁すらしそうな人ですから・・・。
彼の子と私の子がもうだめになりました。それが大きい理由です。
彼の子も彼に似て人の気持ちを、理解できず。はっきりとものをいいすぎ、其れに対抗した私の子がすっかり自律神経をやられてしまいました。
親はわたしだけなので私は子を守らねばなりません。仕方のないことです。
しばらくはうれしいけど、あの強烈な個性の彼を知ってしまった私は、物足りなくて、寂しいとおもいます。一日に二十回は必ず電話をかけてきて、私の動向を
チェックしていた人ですから、彼も手持ちぶたさでつらいでしょ。
でもさよなら。心とからだを壊してまで一緒に居ちゃいけないと、私の奥底で叫んでるの。
家をでればパソコンも当分買えないし、投稿はしばらくできなくなります。
いろいろみなさんのはげましがあったればこそ、と感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
でも、楽しかった。毎日ここをひらくのが楽しみだったの。
KILROYさんはほんとにかっこいいよ。大好きでした。
結婚相手に立候補したいくらいでした。
それではみなさん。さようなら。
みんなの個性を大切に・・・・。愛をこめて・・・・・・・・・・・・。
ゆーり さんwrote:
>
>子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
>泣き始めた女の子がいました。
>式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
>泣き始めました。
>ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
>「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
43歳ASっぽい男性のqwertです。
私の卒業式での経験でも(卒業生・在校生としてですが)やっぱり
共感できなかったですね。みんな泣いているので泣かないとまずい
かなあとは思いましたけど。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
toriさんも発言してた「世界が共有できる人達」の世界ですね。
取り残されてしまった感じですね。集団で同じ感情になってるの
は怖いッス。
私も、そういったお仕着せの儀式の時は冷静ですね。
感情が高揚することはないです。
武田好史 wrote:
>そうですよ。鬱だろうが・躁だろうが・分裂だろうが・ASだろうが・
>ADHDだろうが・LDだろうが、不幸にして脳の機能が普通の人と
>比べて弱いだけ。
躁鬱は誰でもかかるカゼみたいな病気だし、ASは「高機能」広汎性発達障害。べつに脳の機能が弱いわけでもないし、分裂やADHDやLDではない人間が必ずしも「普通」ではないのは、犯罪者が必ずしも心の病気とは限らないことから明らか。
>後はなんら変わりなし!
人間というのは総体として人間なのであって部分の集合ではない。つまり全体性というのがあるのである。私からASの部分を取り去って、ASでないものをくっつけたら、私は私ではなくなる。
>町の中で錯乱状態になった人は、警察の手で病院に運ばれます。
そりゃまあ、薬物中毒患者と見分けがつかんからな。
>「ポンと肩をたたいて、ようと声をかけてくれるような、そんな人間関係
>が欲しい」というその人の言葉が印象に残っています。
ニコポン(ニコッと笑ってポンと肩を叩く)・キンメシ(「近いうちに食事でも一緒にどうかね?」と声をかける)なんていうのは、toriがいちばん厭がりそうな行為のような気がするが。
KILROY
ゆーりさん wrote:
>わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
>ぜんぜん共感できませんでした。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
>こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
>やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
>理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
>やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
泣いたり笑ったりするのはストレスの解消になるので、人は何かにつけてそのためのセレモニーを行ないます。ノれる人とノれない人がいるのは、いたしかたないんじゃないでしょうか。だいいち、「私そういうの苦手だから」と断れるものでもありませんし。
大学だとこのあたりの対処はもっとずっとクールでして、セレモニーとしての「卒業式」と、卒業証書ならぬ「学士証書」を渡す「伝達式」に別れており、卒業式の雰囲気にノれない私は伝達式にしか出ませんでした。ところが証書を渡す役の内藤先生が、私の一人前の学生が読みの難しい名前の持ち主だったので、ホッとして油断が出たらしく私の名前を読みとばし、「うぉおー!」と悲鳴をあげてしまいました(^_^;)。その後の懇談会で、内藤先生は「ごめんな」と謝りにきてくれました。
>それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
>圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
というのはごく普通の感覚で、その「怒濤の一体感」を演出するために式次第というのは設計してあるわけです。体質が合わなくてノりそこない、バッド・トリップしちゃう奴は、どんなセレモニーにも必ずいます。
これに対して「お花見」なんていうのは自主的に参加しているわけですから、参加しといてシラけてしまったりしたら社会人としての常識を疑われます。逆にいうと、企業なんかの「全員参加のお花見」なんていう邪道は許せん、と思います。
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
toriが卒業しちゃったんで虚脱状態 KILROY
きょうはようちえんで卒園式でした。
わたしは、壇上で園長先生に証書をわたす役をしました。
とちゅうで、子どもの名前を読み上げる先生が涙で言葉につまり、
泣き始めた女の子がいました。
式が進むにつれて、司会の先生も泣き始め、お母さん達も
泣き始めました。
「ありがとうさようなら〜ともだち〜♪」の歌のころには
ピアノの先生も泣きながら弾いていました。
わたしはそれを見ながら、「いい卒園式だなあ」とは思ったのですが
ぜんぜん共感できませんでした。
それよりも、会場がみな一体感に包まれて気分が高揚していく
圧迫感を感じました。「のみこまれるのが恐い」という感覚です。
こんなわたしって、情がないのかなあと思います。
やっぱりお互いに別れを惜しんで泣いて笑って、、、っていうのが
理想なんでしょうが、そういう雰囲気にとけこめない自分は
やっぱり異生物なんでしょうね。孤独でした。
お世話になった大好きなうちのクラスの担任の先生が辞めてしまうのは
すごく悲しいのですが。。。
ムードに酔えない、ということなんでしょうか。ふぅ。
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
>
>人間は1個ずつ脳を持っている。
>それを使って自分の世界観を構築する。
>その世界観は一人一人違う。
>
>同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
>脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
>可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
>
>ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
>中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
>だが、それが即、死を意味するわけではない。
>
そうですよ。鬱だろうが・躁だろうが・分裂だろうが・ASだろうが・ADHDだろうが・LDだろうが、不幸にして脳の機能が普通の人と比べて弱いだけ。
後はなんら変わりなし!
今の社会は、許容力を失ってしまって、そういう人たちが生きていく隙間がないんです。
町の中で錯乱状態になった人は、警察の手で病院に運ばれます。何ら悪いことをしていないのにです。これって変だと思いませんか!本人にもその家族にも強い精神的なダメージを与えていると思います。本来なら収容の要請を受けた医療機関からお医者さんがきて、初期措置をしてくれるべきだと思います。
また精神疾患がいかなるものかという、啓蒙も不可欠です。ことに日本は「精神疾患=悪」というイメージが強いようです。そのためか、もう10年以上も病院に缶詰状態という人もいるみたいです。2年ほど前、私は大宮で行われた福祉系就職セミナーで、ある分裂病患者の講演を聴いたのですが、「ポンと肩をたたいて、ようと声をかけてくれるような、そんな人間関係が欲しい」というその人の言葉が印象に残っています。
てっ……照れるぜ(^_^;)。
toriへ。
たぶん俺のいいたいことは全部解ってると思う。だけどコトの成り行きに注目してる連中もいるかも知れんし、俺もはっきり言っといたほうがいいと思うのであえて書く。
俺はいま晴れがましい気持ちと喜びと照れくささで一杯になっている。
同時に俺がtoriの人生における一つの役割を終えた、という一抹の寂しさもある。
娘の結婚式に出ている父親の気持っつーのはたぶんこんなんだろうな。
俺が始めてこの『アスペルガーの館』を覗いたのが三月の八日の夜。で、今日がたかだか三月の十七日だ。たった九日間しか経ってねーでやんの。だけど俺は大恋愛をした後のような充実感?そんなものを感じている。
ただ、あんたに言っておくことがある。
相手の顔色を伺いながら、相手の気に入りそうなことを言うことだけが「人とのコミュニケーション」だと思ってはならんぞ。「相手に自分のことを伝えることで、相手を変える」のがコミュニケーションの本質だ。たぶんあんたが想像するよりも、おれは大きく変化させられた。あんたにだ。それについては口では言えんくらい感謝している。ありがとう。
あんたはたぶん気づいてないだろうが、俺たちが対話を始めた三月八日以来、この掲示板への書込みは倍に増えている。あんたが「話す」ことで、それだけ多くの人を動かした、ということは憶えておいていいと思う。この成果はあんたと俺で半々、といったようなことではない。この掲示板に書込みをしたすべてのメンバーの共同作業が、この成果を生んだんだと思う。もちろん書込みをしなかった奴だってその何倍だか何十倍だかおるんだろうけどさ、でも、そういう人たちにも「話すこと」の大切さ、っていうのが伝わったと思う。あんたはそのことを誇っていい。あんたは「本当のコミュニケーション」って奴に成功した。それは確かだ。
じつは、toriが自分のメールアドレスを公開したときに、「こいつ、変わるな」と思った。俺はちょいと背中をつついただけの役割しかしていない。だけどあんたが感謝してくれるっていうんなら、ありがたくその気持を受取ろうと思う。まあ、メールアドレスが分かったからって「こんど自分で掲示板を立ち上げたから」とか、「こんど新刊が出るから」とか、そういった事務連絡くらいしかしないだろうけどさ、とにかく世間の風に向かって「どんっ!」と立ってるあんたはカッコイイと思う。
世間にゃバカな女も多くてさ、「あんた恋愛なんかしたことあるのぉ?」みたいな態度を取られることが、この先あるかもしれん。だけど、そういうバカ女はひとの人生を変えるような、そういうずっしりと重い「関係」なんていうものを他人と持ったことなどないのである。「あたしはたった九日間だけど、人生変わっちゃうような大恋愛を、したことがあるのよっ!」と思いながら見返してやるといい。本気の人間の思いは表情だけで伝わる。相手がびびるのは間違いない。
とはいえ「なんにもなかった」って思うのもあんたの勝手。「大恋愛だった」って思うのもあんたの勝手。おれとしては後者であるとうれしい。どこかで誰かに「toriさんって人が、KILROYさんと大恋愛したことがあるって言ってたけど本当ですか?」って訊かれたら、「ああ、いい女だったぜ」と笑って答えよう。俺にとってあんたは気持の上ではそのくらい重い。ああ、なんかもういつ死んでもいいや、みたいな気分になっている。かといってあんたが気にする必要もないし、負担になるようなら忘れてくれ。世界のどこか隅っこに、恋に浮かれているバカがいる、ってだけだ。
想いは尽きないがこのあたりで終わりにしよう。「がんばれ」とは言わないし、「さよなら」とも言わない。あんたはあんたの人生をあんたなりに生きて、できればいっぱいいっぱい幸せになってほしい。ただし俺が役に立つようなことがあればいつでも声をかけてくれ。迷惑だと思うな。俺はあんたにだったら「迷惑」をかけられたい。
あんたの前途に祝福あれ。(←カッコつけすぎ、とtoriに代わってお約束のセルフつっこみ)
「俺に用があるときは口笛を吹くんだぜ。口笛の吹きかたは知ってるな? 通信ソフトを立ち上げてATコマンドを打つんだ」というのはかれこれ二十年前のネタ。今はブラウザが勝手にやってくれる。便利な時代になったもんだ。回線上で恋だってできるんだから(^_^)。
(こういう照れくさい話は今回で終わり) KILROY
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
わかります。
というより、toriさんの書かれていることが普通のことだと思っていました。
(それともやっぱり、toriさんが書きたかったことを私はわかってないのかな)
自分の生きにくさが、まわりの人たちとの世界観の大きなギャップによるものだと気付いた中学生の頃、
私の脳が見ている世界を理解してもらおうと、あるいは仲間を見つけようと、
多くの本を読みあさり、文や絵で自分の世界観を表現したのですが、
むしろますます変わり者扱いされただけで、
生きていくことが苦痛で、生を受けてわずか十数年目にして自分の人生に絶望していました。
でも、
私が口にしたことばから同じものを想像してもらえて、
同じ感覚や感動を分かち合える、
私と近い世界観を持つ仲間達が生きている世界がどこかにあるんだと空想して、
その世界に名前をつけ、そこでの日々や仲間たちとの会話を空想することで
救いにしていました。
シュッツさんへ
成人LDのくるとです。
シュッツ wrote:
>リンコさん訳の
>「片づけられない女たち」
>「片付かない、見つからない、間に合わない」
>など、ADD(ADHD)の一般向けの簡単な解説書はあるのですが、同じ
ようにASについての簡単な本はないでしょうか。
1番のお薦めは
トニー・アトウッド『ガイドブック アスペルガー症候群 親と専門家のため
に』(富田真紀,内山登紀夫,鈴木正子訳 東京書籍
1999年刊)
という本です。実際には親や専門家だけでなく本人にも有益な情報が記され
ています。翻訳ですが、かなりわかりやすかった気がします。これだけはシュ
ッツさんのホームページから抜けていました。
ところで、ホームページを見てびっくりしました。ずいぶん色々な本を読ま
れていたのですね。時々参考にさせてもらうかもしれないので、その時はよろ
しくです。
tori wrote:
>アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
>
>人間は1個ずつ脳を持っている。
>それを使って自分の世界観を構築する。
>その世界観は一人一人違う。
>
>同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
>脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
>可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
>
>ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
>中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
>だが、それが即、死を意味するわけではない。
>
>世界観の共有は生きるために不可欠な要素ではない。
>生きやすいか、生きにくいかの違いである。
toriさん。本当の哲学を勉強してみたら?わかってくれる人がたく
さんいると思いますよ。(成人LDのくると)
アホだと知りつつ、わかってもらえないと知りつつ書きます。
人間は1個ずつ脳を持っている。
それを使って自分の世界観を構築する。
その世界観は一人一人違う。
同じ世界観を他の人間と共有すれば、生きやすくなる。
脳には生まれつきの違いがあるが、可塑性がある。
可塑性があるが故に、それぞれの世界観を類似させることができる。
ただし生まれつきの違いのために、限界が出てくる。
中には世界観をまったく他の人間と共有できない者も出てくる。
だが、それが即、死を意味するわけではない。
世界観の共有は生きるために不可欠な要素ではない。
生きやすいか、生きにくいかの違いである。
ねこめ4 さん と 武田さんへ
ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
ちょっとぐったりしてますが、もう平気です。
ねこめ4 さん、一番初めにレスを頂きありがとうございました。
武田さん、カモマイルティは飲みませんでしたが、ほうじ茶を飲みました。(笑)
その他、陰で心配してくださった皆様、お騒がせしまして申し訳ありませんでした。
「こんなこと書き込むなよ」と思った方、大変ご迷惑をおかけしました。どうかお許しください。
まず、言っておかなければならないのは、
私はこれだけペラペラ書いておきながら、視覚優位の人間だということです。
私の思考は言葉では出来上がっていない。
それを言葉に翻訳して書いたり、話したりする。
言葉で考えていると、そのうち自分が何を言いたいのかわからなくなってくる。
それで、言葉でのコミュニケーションは非常に苦手なのです。
常に自分の伝えたいことと、実際に書いた(話した)言葉とのギャップに苦しんでいます。
それともう一つ言っておかなければならないのは、著しく共感性に欠けるということです。
おそらく私は、「死」を感情的には理解していません。
それと、他人の感情を理解する行為が非常に苦手です。
私が人とコミュニケーションを取る際に一番恐れているのは、相手が怒ることです。
もっと突っ込んで言えば、相手が怒って暴力をふるうことを恐れています。
これが人とコミュニケーションを取るときの妨げになります。人と接する時は異様に緊張します。
アホかとお思いでしょうが、掲示板上でも同様です。
これに加えて、何か一つのことに集中すると、それだけしか出来なくなるという癖があります。
これが私には苦痛です。とても人には言えないようなことに拘って、ひとしきりそれが済んだ途端、
「何じゃ、こりゃ。こんなことに時間を費やしてアホと違うか」という自己嫌悪で一杯になる。
たとえ人がそれを見て素晴らしいと言おうが、私の中では「くだらん」の一言でしまいです。
何の意味もないと思ってしまう。完成したものは即、壊したくなる質です。
何でも突き詰めれば新たな発見がある、ということはよくわかっています。ごく小さな部分を極めることで、
全体の構造がたちどころにわかってしまった、こういう経験は何度もあります。
しかし私の場合は、それが興味の終わりなのです。構造が掴めればもう終わり。
でも、KILROY さんの書き込みを読んでいて考えが変わりました。
確か、この掲示板に初めて書き込んだのは2月の前半だったと思います。
その時が、私の掲示板初体験でした。それまで私は、個人的に人とメールをやり取りしたこともなければ、
掲示板に書き込んだこともありませんでした。(今でもメールの方はありません)
なぜ書き込んだかというと、これまで一度も自分と似た人間というのを知らなかった私は、
生まれて初めて、自分と少し似ているのではないかと思える人たちを、この掲示板上に発見しました。
でもやっぱり違うのですね。私は基本的に人とのコミュニケーションを望んでいるわけではなくて、
自分の意見を述べたかっただけなのです。
もしかすると、この人たちはわかってくれるのではないだろうか、という期待がありました。
でも、やはり本当のことは書けませんでした。
キチガイ扱いされるのではないかと、過去の苦い経験が思い出されます。
ちなみに、私はこの文章を書くのに全力を傾けています。
書き始めてから、現在で4時間20分が経過しています。
私は一度に一つのことしか出来ません。
私にとって、人とのコミュニケーションは、その「一つ」に当たります。
自分にとっての「芸術作品」と、「人とのコミュニケーション」のどちらを取るか、
もうおわかり頂けたと思いますが、私は前者を取ることに決めました。
KILROY さんにとって、掲示板上で人とのコミュニケーションに全力を傾ける私は必要ないでしょう。
私はこのまま無職で終わるつもりはありません。でも生きていれば、どこかで実際に会えると思う。
類は友を呼ぶと言いますから。まあその時は、私が tori だとはわからないわけですが。
KILROY さんが私の何を気に入ってくれたのか、全然わからないけれど、
もし私に似たような奴が周りにいたら、遠巻きに眺めていてやってください。(笑)
という訳で、掲示板への書き込みはこれで一旦終わりにします。たまに覗くと思います。
KILROY さんの仕事が上手く行きますように。(←これは本心)
KILROY さんが長生きしますように。(←これはちょっと嘘っぽい(笑))
短い間だったけど、楽しかったです。ありがとうございました。
KILROY さんが私のことを友達ではなく、「友人」と書いてくれて嬉しかった。
「俺はあんたを失いたくない」と言ってくれたことも忘れません。
ちょっと、生きていてよかったなと思いました。(「ちょっと」、というのが味噌だったりするが(笑))
追記: No.3477 『panic』 で書いた発作は、これまでにもあったことです。頼れるところがあったので頼っ
てしまったというのが真相です。それだけこの掲示板のウェートは私の中では大きかった。
ご心配をおかけしてすみませんでした。KILROY さんの記述、とても参考になりました。
次回、おかしくなる前に、病院に一度行っておこうと思います。
>とはいえ元気んなって帰ってきたら、また容赦なく議論吹っかけるから覚悟しとけ。
その時は、どうぞよろしく。
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