アスペルガーの館の掲示板(旧)
あなたは 番目のお客様です。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
りるさん wrote:
> 母親の仕事の関係で、ダウン症や脳性麻痺やカナータイプの自閉症や、重い知的障害を持つ方(子ども)に初めて接したとき
> (確か小学校低学年でした)、
> 「普通の人(健常者)」がしないような奇矯な言動をする、「普通の人」が普通にできることができない、ということで、
> そういう方々が一般的に社会の中で低く見られる傾向にあるというのは知っていましたし、その場でも感じました。
『ブレードランナー』や『トータル・リコール』の原作(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『追憶売ります』)を書いたフィリップ・K・ディックの短編に、『まだ人間じゃない』というのがあります。
舞台は「生後堕胎」、つまり生まれてから12歳になるまでの間に、「この子供はちゃんとした大人にならない」と判断されたら、親の意思でいつでも「堕胎」、つまり殺されてしまう世界。知的障害者が「処分」されたナチス政権下のドイツと同じように、「堕胎トラック」というので運ばれて処分されてしまう。
で、その12歳というのが、「人間の魂が宿る」年齢とされていて、それがじつは高等数学が理解できる年齢のことだったりする。
で、主人公は堕胎トラックに子供たちといっしょに乗り、叫ぶ。「私は代数ができない。だから私に魂はない。いっしょに処分しろ」。
何をもって「知性」とするかは、かなり微妙な問題を含んでいます。
なお、蛸は人間がねじ蓋式の瓶を開けるのを見て、ねじ蓋の開け方を学習するそうです。このとき蛸はいったい何を“理解”しているんだろう、とあたしは気になります。自分以外の“何か”が“蓋”を“開けた”と思っているのでしょうか? それとも単に瓶と蓋の位置関係と「開く」「開かない」の関係を理解しただけなんでしょうか?
あたしとしては、個人的にあたしを知っている蛸を食べたいとは思いません。
> ですが、私はそのとき、
> 「私や『普通の人』にはわからない(感知できない)だけで、そういう人々には、その人々だけに通じる、その人々だけの何か特殊なコミュニケート法や、『普通の人』のやり方では計ることすらできない(わかりやすく例えれば宇宙人のような)独特の知性や能力があって、私たちは、その人々のコミュニティ内では、実は逆に見下されたりしているのではないか?私たちはそれを感知できていないだけで、そのこと自体も『何もわかってないよね〜』と思われているのではないか?」と、
> 「畏れ」のようなものを感じたのです。(「恐れ」ではなく)
> 長じて、知的障害や自閉症についてもう少し知識を得て、更にアスペルガー症候群という概念(発見?)を知り、
> あのとき第一印象として私が感じたことは、ある意味当たっていたのだと思い、嬉しく思いました。
コンラート・ローレンツは、「それぞれの種には、それぞれの種としての世界の把握のしかたがある」ということを言っており、ミツバチにとっての世界と人間にとっての世界は別物である、ということを言っています。
健常者と自閉症者では、おそらく世界は別のありかたをしていると思います。たとえば、自閉症者には秩序や機能の美、というものに対する親和性があるんじゃないかと思っています。「カッコいい」「クールな」道具やプログラムというものがあり、そのカッコよさやクールさというのは、トンボやヘビのそれに通じるものがあります。
コンピュータのプログラムを読んでいても、「ただならぬもの」を感じる美しい部分はたいていよくできていて、「ヌルい」「ださい」感じを受ける部分はしばしば間違っています。
(Maria)
14317 wrote:
> なんかココに居るLDが浮いた存在みたいに感じるけど皆はどうよ?
LDはAタイプではなくLタイプです。
なんかココに居るLDが浮いた存在みたいに感じるけど皆はどうよ?
タマ wrote:
>今日、教授から、私の話し方がおかしいと言われました。
>私は、先生たちや、苦手な人と話すとき、つい「そうですね」と言う言葉を乱用してしまう癖があるのです。
>なんと答えていいかわからないから、ただ、「聞いてますよ」と言うことをアピールしたくて、「そうですね」と言ってしまいます。その「そうですね」は、私にとっては同意の意味があります。
>でも、教授の考えによると、「そうですね」は同意の意味ではないらしいのです。「あなたと同じくらい、私もそれについての知識がありますよ」という意味になってしまうので、自分の知らないことを教えてもらっているときに、「そうですね」はおかしいらしいのです。でも、私にはそれがよく分かりません。分ったとしても、ほかに何と言えばいいのかわかりません。教授によると「そうですか」というのが正しいそうです。でも、私の感覚では、「そうですか」と言うのは「そうですか?」と混同しやすく、相手の意見が意外だったり、気に入らなかったりするときに、使う言葉なのです。
>ただでさえ、話すのが苦手なのに、ますます、話しの仕方がわからなくなってきました…。
僕も同じ感じ。
教授さんは、最近スポーツ選手の女性とか、若者が乱発するもんだから、うっとうしく感じたんじゃないの?
今日、教授から、私の話し方がおかしいと言われました。
私は、先生たちや、苦手な人と話すとき、つい「そうですね」と言う言葉を乱用してしまう癖があるのです。
なんと答えていいかわからないから、ただ、「聞いてますよ」と言うことをアピールしたくて、「そうですね」と言ってしまいます。その「そうですね」は、私にとっては同意の意味があります。
でも、教授の考えによると、「そうですね」は同意の意味ではないらしいのです。「あなたと同じくらい、私もそれについての知識がありますよ」という意味になってしまうので、自分の知らないことを教えてもらっているときに、「そうですね」はおかしいらしいのです。でも、私にはそれがよく分かりません。分ったとしても、ほかに何と言えばいいのかわかりません。教授によると「そうですか」というのが正しいそうです。でも、私の感覚では、「そうですか」と言うのは「そうですか?」と混同しやすく、相手の意見が意外だったり、気に入らなかったりするときに、使う言葉なのです。
ただでさえ、話すのが苦手なのに、ますます、話しの仕方がわからなくなってきました…。
ふれ wrote:
>
> 私も若い頃はそんな気持ちが強かったと思います。でもだんだん年を重ねていくうち、人間てどんな素晴らしい人でもホントのところはそんなにたいした事は無いものであり、必ず年をとって病気になったり、痴呆になったりして、最後には亡くなることを避けられないものなのだと悟ると、とても気が楽になったように思います。
なるほど。確かに、そう考えてみると、少し気が楽になりました(^^)
>
>どのように思われるのか、ではなく、どう思うのか(自分が)という客観的な視点をいつも念頭に置くと、少しずつ変わっていくとおもいます。
すごく説得力があります。確かに私はよく、不安になって、どう思われるかばかり心配して、いろいろ迷って、最後に、で、結局私自信はどう思うのだろう、どうしたいのだろう、と考えたときに、答えがでないことが多いです。結局、自分がどうしたいのかが定まらないために、迷いから抜けだせずにいることがよくあります。客観的な視点、持てるようになりたいです。
人間のあり様がこんなものであり、こんなところがあったり、こんな性格の人がいるのだなぁということが認識の中にたくさんのサンプルとして入ってくると、生き易くなるかと思います。
> わたしは私、こんな趣味が大好き、こんな食べ物も、ってな調子で自分の感性を大事にしていくと、だんだん明るくなります。
だんだん明るくなれるよう、自分の感性大事にしようと思います。
あんくさんとあめさんへ
自分 wrote:
>
>LD Kids & Teens
>
> http://www.todoplan.co.jp/LD/
>
> http://www.todoplan.co.jp/LD/new/keii.html
>
> http://www.todoplan.co.jp/LD/txt/no_4.html
>
> http://www.todoplan.co.jp/LD/letter/index.html
>
>特定非営利活動法人Edge
>
> http://www.npo-edge.jp/
もし参考に良ければと思ってURLをリンクしましたので。(文章を書くのが苦手な僕がリンクしたので果たして参考になるのか心配(;−−))
あんく wrote:
>あめさん wrote:
>>Mariaさんへのレスでも書いたのですが、私は読字障害+読解力が欠如しているところがあり、
>>正直、あんくさんの文章は難しかったです。
>
> 読字障害については、私も知識不足ではあり、自分の文章をアップロードするときでも、常に小さな罪悪感を抱えたままではいるのですよ。「ひょっとして、あんくの文章、読めないって人も、多いんだろうなあ」っていう。
> いくつか質問させていただきたいのですが、
>
>1・「画数の多くて複雑な二字熟語」が続いたりすると(つまり漢字を沢山使うと)、判読しづらいでしょうか?
>
>2・逆に、平仮名が続いたりするのは、どうですか? 例:「それはあまりいい考えだとは思えないな」→「あまり」というのは、ふだん「余り」とは書かないように、あえて平仮名にしたほうが、スマートになるという場合もあるので。
>
>3・あめさんの文章を拝見していると、どちらかといえば「話し言葉」に近くて、「ひらがな」の占める割合というのも、多いような気がします。逆に、同じような文章を、ご自分でお読みになる場合には、「読みづらい」と感じますか?
>
> もしできたら、文章の最初に、「読字障害があります」といった断り書きなどあれば(どういったところに不自由を感じるか、といった、説明があればなおよいのだけれど)、それなりに配慮してレスさせていただくことが、できるかも知れません。
> あとMariaさんの掲示板が復活すれば、文章講座を開講なさっているようなので、参考になるかも知れません(←そういうときは「推奨します」と書くもんじゃろうに!)
> それにしてもMariaさんのように、IQが高いとパラドックスに満ち満ちたような文章になりやすいというのは、これはもう神経症状のなせるわざと思う他ないんだろうかにゃ?
LD Kids & Teens
http://www.todoplan.co.jp/LD/
http://www.todoplan.co.jp/LD/new/keii.html
http://www.todoplan.co.jp/LD/txt/no_4.html
http://www.todoplan.co.jp/LD/letter/index.html
特定非営利活動法人Edge
http://www.npo-edge.jp/
自分解釈です。あまり本気にしないでください。
愛→大切にすること →理性的な「御大切」
恋→欲しがること・煩悩
性欲→生理的なもの →生殖本能からくる「衝動的なもの」
・巷で安売りされている「恋愛(元来中世貴族の文化として発明されたロマンティック・ラブが形骸化したもの)」
これなんかは実体があるのでしょうか??それがそもそも疑問。
つまり実際は「独占欲」「情欲」でしかないものを、上記の「恋愛」であると思い込んでいるだけ、とか。
自分解釈の「恋」に近いもの?よく分からないけど。
「御大切」という言葉は、好きです。 私はそれが「愛」だと思っているので、それだけでいいです。
「恋」は、別に必要でもないし、知らなくても私はどうでもいいです。
最近、パソコンを長時間見すぎて疲れるので、
なるべく投稿はしないぞー!と言っていたのに、
ここを見ると、ついつい、書き込んでしまいました。
ではでは、失礼します。
ふれ wrote:
>りるさんwrote:
>>
>>昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
>>確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
>>擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
>>「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
>> その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
>>と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
>
> この話、私は笑いころげてしまいました。りるさんて面白いひとですね。
>タコに理性があったら、そうかもしれないと思いましたけど。魚は食べてよいものであることが、聖書に書かれていたので気になりません。7つのパンと数匹の魚をイエス様は四千人の群集に奇跡によって分け与えました。マタイ15章のところです。
ううむ。ふれさんはクリスチャンでいらしたのですね。
私は信仰を持っていませんが、
・ふれさんは信仰をお持ちでクリスチャンである
・私は信仰を持たずクリスチャンでもない
という、
差異(が存在すること、それぞれが異なる文化背景を持っていること)を尊重します、という点を、
まず明記しておきますね。
で、宗教絡みになると、話が少々(というのは婉曲表現で、実際は「かなり/非常に」です)ややこしくなってしまうのを
何度も経験していますので(私はクリスチャンでない人の中ではキリスト教に関する知識は比較的ある方だと思います)、
宗教については置いておくことにします。
とりあえず、ふれさんが、
ご自身の趣味=釣りについての私のレスで気を悪くされてはいないこと、
面白がって笑い転げてくださった(=「気を悪くはせず、なごやかに受け止めてくださった」と理解しました。特に笑い話として書いたつもりはないのですが(^_^;))ということで安心しました。
で、「タコに理性があるか否か」ということなのですが、
私の知る限りですが、「タコに理性(知性)はない」という証明はされていませんよね。
「ヒトと同じような知性はない」と、(あくまで)ヒトの方法で証明されてはいるかもしれませんが。
この話から以下の話につなげると、もしかすると気を悪くされる方がいるかもしれません。
ですが、誤解を怖れず、この話から思い出したことを率直に書いてみます。
母親の仕事の関係で、ダウン症や脳性麻痺やカナータイプの自閉症や、重い知的障害を持つ方(子ども)に初めて接したとき
(確か小学校低学年でした)、
「普通の人(健常者)」がしないような奇矯な言動をする、「普通の人」が普通にできることができない、ということで、
そういう方々が一般的に社会の中で低く見られる傾向にあるというのは知っていましたし、その場でも感じました。
ですが、私はそのとき、
「私や『普通の人』にはわからない(感知できない)だけで、そういう人々には、その人々だけに通じる、その人々だけの何か特殊なコミュニケート法や、『普通の人』のやり方では計ることすらできない(わかりやすく例えれば宇宙人のような)独特の知性や能力があって、私たちは、その人々のコミュニティ内では、実は逆に見下されたりしているのではないか?私たちはそれを感知できていないだけで、そのこと自体も『何もわかってないよね〜』と思われているのではないか?」と、
「畏れ」のようなものを感じたのです。(「恐れ」ではなく)
長じて、知的障害や自閉症についてもう少し知識を得て、更にアスペルガー症候群という概念(発見?)を知り、
あのとき第一印象として私が感じたことは、ある意味当たっていたのだと思い、嬉しく思いました。
当たっていない、とか、気を悪くした、とか、嬉しいなんておかしい、とか、そういう方がおられましたらどうぞご指摘ください。
#Mariaさんの書き込みをじっくり読んでレスする余裕がなくなってしまった…<自分が昼間っから書きまくったせいですが。
タマさん wrote:
>もっと、わりきって、いろんなわだかまりを捨て去って
>バカにされても笑われても自分らしく生きることを大事にしたい。
>でも、それが、なかなかできない私です。
>バカにされたくない、笑われたくない、人の目が気になる…。
>だめだなあ、私って。
>
私も若い頃はそんな気持ちが強かったと思います。でもだんだん年を重ねていくうち、人間てどんな素晴らしい人でもホントのところはそんなにたいした事は無いものであり、必ず年をとって病気になったり、痴呆になったりして、最後には亡くなることを避けられないものなのだと悟ると、とても気が楽になったように思います。どのように思われるのか、ではなく、どう思うのか(自分が)という客観的な視点をいつも念頭に置くと、少しずつ変わっていくとおもいます。人間のあり様がこんなものであり、こんなところがあったり、こんな性格の人がいるのだなぁということが認識の中にたくさんのサンプルとして入ってくると、生き易くなるかと思います。
わたしは私、こんな趣味が大好き、こんな食べ物も、ってな調子で自分の感性を大事にしていくと、だんだん明るくなります。
りるさんwrote:
>
>昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
>確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
>擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
>「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
> その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
>と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
この話、私は笑いころげてしまいました。りるさんて面白いひとですね。
タコに理性があったら、そうかもしれないと思いましたけど。魚は食べてよいものであることが、聖書に書かれていたので気になりません。7つのパンと数匹の魚をイエス様は四千人の群集に奇跡によって分け与えました。マタイ15章のところです。
あめさん wrote:
>Mariaさんへのレスでも書いたのですが、私は読字障害+読解力が欠如しているところがあり、
>正直、あんくさんの文章は難しかったです。
読字障害については、私も知識不足ではあり、自分の文章をアップロードするときでも、常に小さな罪悪感を抱えたままではいるのですよ。「ひょっとして、あんくの文章、読めないって人も、多いんだろうなあ」っていう。
いくつか質問させていただきたいのですが、
1・「画数の多くて複雑な二字熟語」が続いたりすると(つまり漢字を沢山使うと)、判読しづらいでしょうか?
2・逆に、平仮名が続いたりするのは、どうですか? 例:「それはあまりいい考えだとは思えないな」→「あまり」というのは、ふだん「余り」とは書かないように、あえて平仮名にしたほうが、スマートになるという場合もあるので。
3・あめさんの文章を拝見していると、どちらかといえば「話し言葉」に近くて、「ひらがな」の占める割合というのも、多いような気がします。逆に、同じような文章を、ご自分でお読みになる場合には、「読みづらい」と感じますか?
もしできたら、文章の最初に、「読字障害があります」といった断り書きなどあれば(どういったところに不自由を感じるか、といった、説明があればなおよいのだけれど)、それなりに配慮してレスさせていただくことが、できるかも知れません。
あとMariaさんの掲示板が復活すれば、文章講座を開講なさっているようなので、参考になるかも知れません(←そういうときは「推奨します」と書くもんじゃろうに!)
それにしてもMariaさんのように、IQが高いとパラドックスに満ち満ちたような文章になりやすいというのは、これはもう神経症状のなせるわざと思う他ないんだろうかにゃ?
りるさん wrote:
> 「私が今直面してるカルチャーショック(=まったくの異文化を背負った人と初めてまともに接した)」というのは、先日のここでの(123さん関連の)話ではなく、まるっきり別の、私個人の、オフでのプライベートな話なのです。
なるほど。
誤読の原因は、あたしの場合、あたしの「ロジック・思考回路」を理解している人はあたしとほぼ同一の文化を背景にしていて、あたしの「ロジック・思考回路」を理解していない人はあたしとはまったく別の文化を背景にしており、そういう人はあたしが背景にしている文化を理解したくもなければする気もない、ということにありそうです。
この点について詳しく論じようとすると、「理系/文系」「理科系/文科系」「文人趣味」「スノビズム」とかいった言葉について詳しく論じないといけなくなってしまうので深追いはしないことにしますが、基本的には「考えるのが好きな人/嫌いな人」で別の文化を持っている(考えるのが嫌いな人が果たして文化と呼べるものを持てるのかどうか疑問なんだけど)ことに理由があるように思います。
> 後の発言は非常に興味深いので、じっくり読みます。
と、いうことなので、ちょっと補足。
> で、実際、プログラマーとしての仕事の中では、「異質な文化を背景にしている」ことがプラスに作用することが多いんです。
> それは、左利きのボクサーが有利なことに似ています。相手は左利きのボクサーと対戦したことがほとんどないのに、こっちはほとんど常に右利きのボクサーを相手にしているわけですから。
以前、この『アスペルガーの館の掲示板』で挙げた例としては、ある証明問題の例があります。
「4つの数字を加減乗除することで10を作る」という遊びがあります。で、「その4つの数字に0が含まれていなくて、すべて異なっている場合は、常に10が作れる」という法則があるんですよ。で、「それをどうやって証明するか」という話になったときに、「普通の人」というのは、だいたい「無理だ」とお手上げになってしまいます。
ところが、「簡単だよ」という人がいました。「どうやるの?」と訊いたら、「全部で126通り(=9×8×7×6/4×3×2×1通り)しかないんだから、全部試せばいい」。
ところが、「普通の人」は「ずるい」「それは証明になってない。『やってみたら、できた』じゃ、“証明”とはいえない」とか言って怒るのね。
いわゆる「コロンブスの玉子」というのもあります。よく云われるお話だと、コロンブスは玉子の一端をテーブルに打ちつけて玉子を立てた、ということになっているのですが、本当は、玉子というのは立つんです。
成るべく新鮮な、ざらざらした玉子を用意し、水平で安定したテーブルの上に、そーっと立てると、三個のうち二個くらいの割合で、玉子というのは立ちます。
「そうやって私のことをからかって喜ぼうというのだろう」とか言う人もいるので、実際にやって見せるのですが、それでも「いや、何かトリックがあるのだろう」とかいって信じない人がいます。中には自分でやってみて、立つことを確認しながら「きっと何か仕掛けがあるんだ。おかしい」とか「これはたまたま立ったというだけで、特殊なケースだ。普通にやったらうまくいくわけがない」とか言っている人がいます。
人間には、なにか「証明」なり「解決策」なりのイメージがあって、そこから外れたものを排除する傾向があるように思います。一種の(作為のない、先入観による)ミスディレクション(=誤誘導)と言えるでしょう。そういうものに囚われない、という意味では、変わり者というのは問題解決に役立つ部分があります。トリックスターというのは、本来的にそういうものかも知れません。
>> ある言動について、
>> 「(私)なんでそうするの?」「一般常識としてそうするものだと自分は思っているから」「なんで?」「そういうものだから」「なんで?」
>> おそらくどんな面においてもこの繰り返しで永遠に平行線なような気がします……。
>
> 「常識」というのは、けっこう偉大なものです。工学の世界では、「車輪の再発見」という言葉があって、ものを移動するにはけっきょく車輪を使うのがいちばん実用的だったりするわけです。
> そんなわけで、「常識」は十分に掘り下げる必要があるのですが、多くの人はそこのところをサボって、単なる思い込みに引きずられています。
「一般常識」といった場合、『人間はなぜ鯉や鮒を食べるのに、生物学的には同じ種であるはずの錦鯉や金魚を食べないのか?』みたいな「常識」について考えたほうがいいかもしれません。「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんかもそうです。
「蛇や猫を怖がる人がいるのはなぜか」なんかもそうなんですが、少なくともそこには人をそうさせる機序(メカニズム)が働いているわけです。多くの人は、その機序を詳(つまび)らかにすることを怖れているように思います。「そうだから、そうなんだ」というところから、外に出るのが怖い。
普通の人にとって、「理性」というのは、「自分の外にあるもの」として位置づけられているのではないかと思います。だから、理論で説明されてしまうと、自分のもの(自分の一部)ではなくなってしまうような気がするのではないでしょうか。あたしの場合は、逆に「すっきりと説明される」ことで、真に「自分のもの」になるような感じがするのですが。
> 応用数学という分野に「ゲームの理論」というのがあり、その中の意思決定理論というのによれば、「合理的判断は、必ずしも合理的な結果をもたらさない」ということが分かっています。「囚人のジレンマ」という名前で知られているのですがね。
「最近の子供はゲームと現実の区別がついていない」みたいなことを言う人がいますが、「純粋に(遊びとしての)ゲームとして楽しめる(概念としての)ゲーム」と、そうでないゲームの区別という点においては、むしろ大人のほうが混乱しているように思います。
たとえば、シェアを得るためにダンピングなどの方法で競合他社を潰しにかかる、というのは「利益を得る」という「ゲームの中の価値」に対しては忠実なのですが、「社会における価値観」には反しています。「反則が負けにつながらない範囲で、反則行為も活用する」というのがプロサッカーなどでは「正しいこと」とされていて、「上品なプレイ」は否定的に見られているわけなんですが、そういう態度こそが「ゲームと現実の区別がついていない」気がします。
世の中には価値観が混乱している人がけっこういて、それを「文化」だと思い込んでいる人もいます。こういう人を「理解」しようとするのは、危険なことのように思います。
(Maria)
ふれ wrote:
>>
回りとずれていて苦労があり、会わせなくちゃいけないという思いが、日常のストレスの原因のようです。
会わせなくちゃ→合わせなくちゃ 、です。
りる さんwrote:>
「異性は薄着でブラジャーをしていないと『ヘンな目』で見る」という事実を知っているので、仕方なくしていた時期もありました。
>(その拘束感の不快さに耐えられず長時間の外出ができなかった、パニックを起こしかけたなど、行動に制約が生まれてしまったこともあります)
>いろいろ試行錯誤して、今は「ヘンな目で見られない」ことと「拘束感が極力少ない」ことが両立するような下着を選んでいます。
>ハズレに当たることも多いですが、がんばって探せばなんとか見つかるものだなあと思いました。
>
ほとんど私も同じです。ちょっと驚いたくらい似ています。
ずっと前、きつめのセーターと上着を着て出かけたところ、地下鉄の中でパニック状態寸前となり、次の駅で降りて、どんどん脱いだら(もちろん全部じゃないよ)命拾いをしたような気がしました。このときブラジャーなんぞしていないのに、そんな風になったのです。普段はゆるめのブラスリップか、ただのスリップを着て、ブラウスにジャンパースカートでとにかく楽な服装に徹しています。ストッキングもだめで、ハイソックスかソックスのどちらかです。首をすっぽり包むタートルネックのセーターにいたっては、ゼーッタイ着ないです。人が着ているのを見るのも少しつらいですね。どうしても、ブラジャーが必要な時は、(スポーツなど)ソフトブラを愛用しています。
私は健常者なのですが、こういう話を聞くとやっぱりかなりASなのかもと思います。割合個人主義的発想が多く、回りとずれていて苦労があり、会わせなくちゃいけないという思いが、日常のストレスの原因のようです。
あつみさん wrote:
>では、異なる文化を持つもの同士が、理解し合い、お互いの存在を尊重するにはどうしたらよいのだろうか?
>と考えたわけです。
>そして、そのためにはどちらか一方だけが優位になる「ロジック・思考回路」に基づいた土俵で、意見をやりとりするのではなく、お互いの「ロジック・思考回路」をそれぞれ理解しようと努力するか、または、新たな「ロジック・思考回路」に基づいた土俵を作るということが必要なのだろう、という結論に至ったのです。
>ここの掲示板を拝見するようになって、そうした「精神力」をひしひしと感じさせる書き込みに、度々出会い、私も「本当に思っていることを、言葉を尽くして言ってみよう」と勇気づけられました。
>実際の会話となると、相手の話を聞きながら理解し、それに次々と答え、同時に自分の考えを纏めて言いたいことは言う、という、アクロバティックな技術が要求されますからね。とても難しいと思います。やはり、会話のスピードが速い人とか、押しの強い人、多数派の意見を持つ人の方が優勢になってしまう。
「自分には技術がないからダメだ」と、思ってしまう必要は、ないんですよ。相手がスピードを挑んでかかったら、逆に、じゅうぶんすぎるほどの「間」と「距離」を置きつつ、「あなたのペース」になることを断固拒否することを、言葉によらず「黙示」してみせるという技術だって、あるのです。
ほら、よく、いるじゃないですか。自転車で走っている時、無闇に追い越しを仕掛けたがってくる人間。やられた方もやられた方で、「勝った!」という、相手の独り言を聞きつけてブチ切れ、「なにおー!負けるかー!」とばかりビュンビュンビュンビュン、熾烈な競争を買って出てしまうタイプ。お互い一面識もなければ
、勝った方に褒美が出るというわけでもない、はたから見れば、ただひたすらに不毛でしかないというのに。
1年ぐらい前だったかな、小学生ぐらいの女の子に、そういう向こう見ずな「勝負」を、挑まれた記憶があるんですよ。例によって、アスペ的無用の長期記憶ってやつなんですけどね。で、私はさりげなくブレーキをかけ、停止して「試合を放棄」して見せました。女の子、追い越しながら、振り返ってみてびっくり仰天って表情だったなあ(吹)。無論、その間一語の発語もなしです。
こういった程度の技術なら、比較的軽い自閉人でも、日常的に、行使していると思うんです。言葉がすべてではないってことですな。
あんく wrote:
> 「捨て台詞」だと、意見交換にもならないんですけどね(-_-!)。「健常の第三者」と、「当事者」が、川のこっち側とあっち側のまま交わることもなければ、普段の生活で、Asやその他の発達障害について、トラブルや葛藤をも忌避することなく語り合える場、というのが、この国の土壌には見当たらないよなあ。
あつみさん wrote:
>そういう「場」を見つけたい!というのが、「異文化コミュニケーション」を達成したい、ということなのです。いや見つけるのではなく作らないといけないのでしょうかね。双方にとって、自分の価値観を揺るがされるような辛い場になるかも知れないと思いますが、もしこれが実現できれば、(ちょっと論理が飛躍しますが)戦争や民族紛争の予防などにも、役に立つのではないでしょうか。
全般的な差別問題についての話し合いの中でも、「精神」関連は、いまだタブーの最高峰視されているというのが、現状らしいですね。TV新聞にばんばん露出しては、あれだけ口うるさい有名文化人、知識人といったたぐいが、精神・発達関連分野では、人っ子ひとり見当たらない。話題にするのは超・有名人のカミングアウトなり告白本なり出てから、というのが、日本人的「ダンドリ」に、なっているんだろうなあ。
ただ、最低限、タブー視されている原因というのが、当事者側自体の「ヤバさ」にあるのでなく、たとえば病院側の扱いのような、「見えない悪事」のほうにある、という認識は、今のところは我々だけでもきっちり確認しておくべきだと思います。
ふれ wrote:
> 今度、川へ行って釣りをする予定です。誘い釣りというやり方がありますが、それを自己流に変えて、魚の闘争本能をうまく使って釣り上げるやり方でわたしは楽しんでいます。管理釣堀で、1時間半くらいの間に10匹釣ったことあります。岩魚、やまめなどでしたが、後で食べておいしかったなあ。人とはダメでも、魚とは結構うまくいくようです。釣りの好きな人、アスペに居そうだけど、みなさんはどうですか?
私は魚と同化してしまうらしくダメです・・・。といっても、私は未診断の自称アスペですが。
#もしかしたらこの発言はふれさんの釣りの楽しみを削いでしまうかもしれないと思うので、その危険を感じられるようでしたら以下は読まないでくださいね。
自己/他者の「他者」としては、私の中ではヒトと犬猫やいろいろな生き物がかなり同列です。もちろんレベルは違いますが。
あの逆トゲのついた針が自分のノドに刺さって自力では二度と抜けなくなって「うわあ痛い!苦しい!」という状態を想像してしまい、
さばくときには(自分でやってても、TVで見ていても)「ああ今このハラに包丁が入った!裂かれてる!裂かれてるよー!」と想像してしまいます。
生き造りの席には一度だけご招待されましたが、
「人が(←ここが既に間違いらしい)生きながら解体されて断末魔の苦しみにもがいている様子を
『おお跳ねてる跳ねてる、活きがいいなあ』などと喜ぶ神経が理解できないー!」と言ったのですが理解してもらえませんでした。
それでも自分は魚も肉も人並みにちゃんと食べるのですけれどもね…。
都合の悪いところは人まかせにしている(現代人や都会人にありがちと言われる)、卑怯なスタンスだとも思います。
筋子の類はかなり好きなのですが、食べる度に
「ああこの一粒一粒がそれぞれ一個の生命になるはずだったというのに、いったい今私はいくつの生命を喰っているのだろう」と毎回思います。
高校生の頃にそういうことを考え過ぎたりしてほとんどモノが食べられなくなった時期があったこともあり、
今はなるべく考えないようにしています。
それもたぶんスキルのひとつなのでしょうね。
昔「たこ焼きスナック」というのがけっこう流行った時期があって(商品自体は今もあると思いますが)、
確かその最初のパッケージには、商品名や商品写真と共に、
擬人化されたタコが「おいしいよ」というのぼりを持っているイラストが印刷されていたのです。
「己の切り身が入ったもの(正確にはその味を再現したものでしょうが)を
その当人(同胞かもしれませんが)に自ら『おいしいよ』とアピールさせるとはなんて残酷で痛ましいんだー!」
と言ったのですが、誰にもとりあってもらえませんでした。
Fuyuki wrote:
>どういった会合になるのでしょうか。
>私はいつも一人だったし、同じような人に会ったことがありません。
>皆さんは同類の人と直に会ってお話をしたことがありますか。
当掲示板には、オフ会というものが存在します。
活動理念や規則その他については、私は主催者ではないので、勝手なことは、言えないのですが…。参加する側としても、参加動機にしろ、参加してから抱く感想にしろ、おのおの十人いて四十通り以上はあろうかという気が、私にはしています。
とりあえず、次回のオフは、10月26日、都内の障害者スポーツセンター
http://www.tgs.co.jp/o_sport1.htm
(東京都障害者総合スポーツセンター)
を利用する予定。よかったら、いらしてください。
掲示板常連メンバーの一人である、こうもりさんという方が運営している、メーリングリストに登録することも、できますよ。
とゆーことで、宣伝を兼ねて。
misplaced wrote:
>昔、キリスト教の宣教師が初めて日本に来たとき、神への愛(アガペーでしたっけ)をどういう日本語にするか悩んだ末に、「御大切」と訳したそうです。
>達観だったと思います。国外逃亡者さんのおっしゃるとおり、愛とは「誰かを大切にすること」なんです。
「御大切」という訳についてはきいたことがありました。
その訳語のままで現在まできてくれていたら、少なくとも私はこんなに混乱しなかったんじゃないかなあ…。
#「愛情」とかもそうではないかと思うのですが、「日本に存在しなかった概念に対しての、日常的な実感から乖離した漢語的訳語」を広めたのは福沢諭吉でしたっけ?日本語には大きく分けて「日常用語」と「学術的用語」との「語彙レベルの違い」が存在する点は、他の言語圏のアスペよりも、より問題を複雑にしているのではないかという気もします。私の知っている欧米言語では日常的な語彙が哲学論文等に使用されていました。
>幸か不幸か、生物には生殖本能がありますからね。気に入った異性を見つけて、その相手に、自分の子供を作らせたいと思うのは本能の働きです。その本能的な衝動を理性でコントロールされるべき「愛」と混同してしまうと、大変に困ったことになります。
私は、実はこの「生殖本能」(の働きによると思われる言動)からしてさっぱりわからないのです。
女性ならば「(一緒になってくれなくてもいい、せめて)あなたの子どもが欲しいの。」
男性ならば「俺の子どもを産んでくれ。」
両性に共通して「自分の遺伝子を残したい。」(どちらかというと男性に多いようですが)
これらがどういう思考回路から出てくるものなのか、さっぱり理解できません。
なので、たとえば映画にもなったユウミリさんの一連の自伝的小説は、
読んでいないのにこういうふうに言うのはどうかとも思うのですが(読む気にもならない)、概略をきいただけですが、
どういうロジックでそういう状況になったのか、その話の何がどうそんなに感動的なのか、さっぱり理解不能なのです。
「性欲」はヒトの本能として理解できますが、
それは既に「生殖本能」とははるかに乖離したものなのではないか?と思います。
少なくとも現在の日本では、「生殖を前提としない性交渉」が圧倒的に多数だと思うので。
特に、最近の若年層には「性交渉は元来生殖のためのものである」ということが正しく伝えられていないため、
様々な弊害が起きているともききます。
つまり、misplacedさんの分類だと、世間一般で大きく「愛情」とくくられているものの中には、正確には、
・理性的な「御大切」
・生殖本能からくる「衝動的なもの」
・巷で安売りされている「恋愛(元来中世貴族の文化として発明されたロマンティック・ラブが形骸化したもの)」
の3つがあるということなのですね?
1つ目は理解できる気がします。
3つ目がさっぱりわからない・・・。
理解できなくても良いものなら理解しなくても良しとすれば良いのでしょうが、
理解不能な不可解なものが多数派であるというのはどうにも気持ちが悪いです。
《アスペルガーの館》に戻る /
新しいアスペルガーの館の掲示板
EWBBS.CGI 改 (WZ BBS対応 Web掲示板 T.Ikeda改 +
s.murakami改)
© 1998 y.mikome, T.Ikeda, 1999 s.murakami